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◎日本人の心に迫る「書」 春となり庭の草木も芽吹き、眠っていたカエルも動き出しています。私たち書家も三月は忙しい月でした。 新しい生活に向けて一つの山越え、「卒業」の時。毎日のように新聞には学校の卒業式が写真入りで紹介されてきました。手に「卒業証書」を持ってにこやかに誇らしげに。保育園・幼稚園から始まり小学校、中学校、高等学校、専門・専修学校、短大、大学と、人それぞれでしょうが、一生のうちに何枚の卒業証書を持つことになるのでしょうか。 各学期や学年の終わりは終業式といいます。これに対して小学課程や中学課程を終える時は卒業式といいます。広辞苑でみると、「終業」=(1)その日の業務を終えること(2)学校で一学期間または一学年間の学業を終えること、とあります。また、「卒業」=(1)一つの業を終えること(2)学校の全課程を履修し終えること(3)比喩(ひゆ)的にある程度や段階を通り越すこと、と記してあります。 「終」は限定された時間や部分を終わることであり、「卒」はそのすべてを終わることです。卒の字には「死ぬ」という意味もありますから、本当に終わることになるのでしょう。 さて、その六年や三年、または二年、四年という学業・技芸の履修したことを証明したものが「卒業証書」です。私も勤務してきた高校で揮毫(きごう)しました。時には「堂々としたものを」、また「味わい深いものを」などの注文がありました。 一番心に残っているのは、校長先生がご自身の名を自筆されたことでしょうか。私は心を込めて墨を擦り、生徒一人一人の顔を思い出し、ふれあいを思いながら、その時間の重さを載せるつもりで揮毫しました。 大切なもの、重要なものは毛筆で、墨でというのが私たち民族のしきたりというか、伝統であったと思います。昨今、諸々の書式がA4判横書きパソコンで行われるようになりましたが、その影響でしょうか、「卒業証書」までがこの書式になったようです。いかに時代とはいえ、証書が示すその時間、中身、重さにふさわしいものであろうかと考えてしまいます。 先日、勢多農林高と前橋南高の生徒の書道展を見る機会がありました。たくさんの作品が展示され、それぞれ創意と工夫もあり、楽しめました。指導に当たられた先生に敬意を表します。 「みみをすませば山のこえがきこえる」「どんなつらい道だって友と歩もう」「どんなに小さくたってたったひとつの命だから」「美しい草が鳴り響く」(以上勢多農林高)、「世界中みんな同じ空の下」「今から自分を変える」「だれのものでもない私のわたし」(以上前橋南高)。 活字にしてしまえば、どこかで見たり聞いたりしたと思えることばですが、これらの「書」は私に迫ってきます。書表現としては拙(つたな)い部分もありましたが、しっかりと読ませ、感じさせます。それは毛筆を使い、墨で書かれているからです。つまり、毛筆や墨というものは用具ではありますが、日本人の民族の文化として心に「棲(す)んでいる」からでしょう。 (上毛新聞 2008年3月28日掲載) |