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県読みきかせグループ連絡協議会顧問 小林 茂利(前橋市表町1丁目)

【略歴】 東京商科大(現一橋大)専門部卒。元県職員(商工労働部長で退職)。自宅で児童図書室を開設したことも。「ミズチの宝」で県文学賞受賞。2000年から現職。

聞く文化

◎イメージが明確になる

 日本の識字率は、欧米諸国にくらべても高いといわれるが、江戸時代までさかのぼると間違いなく世界トップクラスであった。いうまでもなく寺子屋と呼ばれる教育機関で、よみ・かき・そろばんを習ったからである。

 しかし、書物が印刷本として普及するのも江戸時代からで、それまでは竹取物語、伊勢物語、源氏物語、今昔物語、徒然草、方丈記など、日本文学の古典はすべて写本で伝えられた。当然のことに書き間違いなどが発生するわけで、複数の写本が伝来する場合、比較検討して本文を校訂する作業が重要になる。

 それはともかく、写本は数が限られ、貴重でもあったから、誰かが音読して複数の人がそれを聞くという形態が一般的だったろう。身分の高い貴族の子女のために、物語を絵巻にして、文字が読める人が詞書(ことばがき)を読んで、子女は絵を楽しむという形も行われた。大量に作られた奈良絵本は、絵巻の大衆化といってよい。

 江戸時代には、木版による整版(一枚の版木に文字と絵を彫って印刷する方式)が確立して、書物の流通が盛んになる。貸本屋が店舗を構え、本を背負って得意先を回る人も数百人いたという。こうして草双紙と呼ばれる絵入りの通俗読み物が大衆化する。黄表紙と呼ばれる草双紙などである。

 これらは字が読める人が音読して、複数の人がそれを聞くという形があったろう。『東海道中膝栗毛』『浮世床』など、そういう形で多くの人に喜ばれたろうと思う。

 いっぽう、『平家物語』を語った琵琶法師や講談のはじまりといわれる「太平記読み」などは、文字を音声化することを専門とする人たちであって、浄瑠璃などと並んで、大衆芸能としての聞く文化の一翼を担った。

 咄家(はなしか)の祖といわれる安楽庵策伝(一五五四―一六四二年)は浄土宗の僧侶で、大名に笑い話を語ってきかせたというが、江戸中期以降、たくさんの寄席ができた。いまのコンビニほどの数があったようである。

 夏目漱石(一八六七―一九一六年)が三代目柳家小さん(一八五六―一九三〇年)のファンだったことは有名だし、言文一致体の小説を書いたことで知られる二葉亭四迷は、師の坪内逍遙にいわれて、三遊亭圓朝の速記本を手本にしたといわれる。山田美妙、尾崎紅葉、夏目漱石、森鴎外など、文語体の文章はもちろん漢文体の文章も書けた人だが、欧文の文脈まで取り入れた新しい文体(それは現在でも通用する日本文だが)を創造した裏には、聞く文化が通底音として響いていた。

 黙読では感じ取れなかった世界が、音読によって新しい地平線を開くことになる。太宰治は自作を音読しながら原稿を書いたといわれるし、浅田次郎なども音読をするという。それは読みやすく、リズムのある文章を書くという以外に、イメージの明確化に役立つ。






(上毛新聞 2008年3月22日掲載)