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◎生態系の回復を願う 昨年十一月十五日、渡良瀬川に遡上(そじょう)してきたサケの群れを確認した。場所は、館林から佐野へ通じる県道館林寺岡線の高橋大橋の上から見たのであるが、二十匹から三十匹くらいで泳いでいた。中にはメスとオスが協力して、産卵している姿もあった。知らせを受けて駆けつけた私たち「渡良瀬川にサケを放す会」のスタッフは、この状況を見て感動し、喜び合った。 昔の渡良瀬川は、このようにサケがどんどん遡上してきた。そのほかに大きな魚ではコイ、マス、ナマズなどが多くいたが、コイは「バカ釣り」という簡単な方法で、面白いほど捕れたという。小さい魚ではフナ、ハヤ、ウナギ、ドジョウ、エビなどが捕れたので、流域の村々には漁業で生計を立てていた人が少なくなかった。例えば、栃木県の吾妻村で明治の初めには「百五六拾人余」いたが、足尾鉱毒事件後は「僅カニ拾四人」に減ってしまったという記録がある。 また、下流域の農村は、天然の肥料に恵まれ、農作物がよくできた。ここでいう「天然の肥料」とは、足尾の山でつくられた腐葉土のことである。当時の足尾の山は、鬱蒼(うっそう)とした森林に覆われていたため、落葉や木の実などでできた腐葉土が森林の根元や谷底に厚い層となって堆積(たいせき)していた。足尾に大雨が降ると、河川の水量が急に増えて河道から水が溢(あふ)れる。いわゆる洪水であるが、この洪水によって、堆積されていた腐葉土が下流に押し流されてくる。これが、農作物をよく育てた天然の肥料である。 ところが明治中期、足尾銅山(古河鉱業)が急速に拡大生産、つまり産銅量を増加したことで、煙害や乱伐による環境破壊が激しくなり、緑豊かな足尾の森林地帯ははげ山と化してしまった。 私たちは、足尾鉱毒事件の学習を通して、恵みの川であった渡良瀬川が鉱毒事件で死の川に変わってしまったことを知った。鉱毒の被害で苦しむ農民たちが、鉱毒事件の解決のためにどのように闘ったか、また古河鉱業や明治政府が被害者の訴えにどのように対応したか、などについても理解を深めることができた。 そこで、学習の成果を現代に生かす実践例として、「足尾に緑を 渡良瀬に清流を」というスローガンを掲げた「渡良瀬川にサケを放す会」が発足したのである。一九八二(昭和五十七)年からスタートしたこの会の事業は、その志を継ぐ人たちによって現在まで続いてきた。 毎年十二月になると、「サケの赤ちゃんを育ててください」というチラシを新聞に折り込んでいる。この呼びかけに応えて集まってきた人々に、東北地方の漁協から購入してきたサケの受精卵二万粒を、無料で配布する。卵を持ち帰った人たちは、各家庭においてふ化させ、生まれたサケの赤ちゃんを大事に育てる。育てられた稚魚は、翌年の早春、二月末に一斉に放流される。今年も先月二十四日、二十七回目の放流が行われた。昨年十一月、渡良瀬川に遡上してきたサケの姿を見て感動したのは、サケの生態系の回復を願っているこの運動の後継者たちである。 (上毛新聞 2008年3月8日掲載) |