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◎平和教育に活用したい 最近、考古学の対象は広がって第二次世界大戦の戦争遺跡をも扱うようになった。 先日、世界遺産の視察のためにベトナムを訪ねた。世界遺産の古都フエではベトナム戦争時、米軍の爆撃により王宮が破壊されてしまった。煉瓦(れんが)でできた壁には所々弾痕が見られた。現在、ユネスコの支援の下、建物の復元・修復が進められている。 その次に見学した同じく世界遺産の、聖地ミーソン遺跡(四―十七世紀)には、ベトナム戦争時、ベトコン(南ベトナム解放戦線)の根拠地が置かれた。ベトコンは、米軍が世界的な文化財を破壊してまでも攻撃しないと思ってそこに立てこもったという。しかし、それは誤算で、米軍は容赦なく空爆を繰り返した。そのB―D地区には、直径約五メートル、深さ約二メートルにも達しようかという大きな爆弾の炸裂(さくれつ)痕が一つ、わざと修復されずに残されている。これ自体がベトナム戦争の証言者である「遺構」である。煉瓦でできた当時の建物内は博物館のように利用されていた。そこには出土遺物とともに不発弾も展示されていた。 石や煉瓦でできた遺跡・遺構の復元には、それに手慣れたイタリア、フランスなどが技術協力を行っている。一方、日本もそのガイダンス施設の建設に資金援助をしていた。付近の山々には緑が回復していたが、枯れ葉剤の影響であろうか、妙に虫が少なく、今になって思えば鳥のさえずりも心なしか聞いた記憶がない。 見学時にガイドに尋ねた。「米国人の観光客や見学者はいるのか」と。すると「いることはいるが、その際、通常の一般のガイドでなく、特別に警察官がガイド役になる」という。それは決まって喧嘩(けんか)になるからだそうだ。戦争の「加害者」と「被害者」という立場・関係が、そこにはいまだ厳然と横たわっている ホーチミンには戦争関係の博物館が多くあった。そのうち、戦争証跡博物館を見学した。中にはピュリツァー賞受賞の報道カメラマン、故沢田教一氏撮影の写真『安全への逃避』と、彼が銃弾に倒れた際に被弾したカメラの大伸ばしの写真が展示してあった。博物館本館には、枯れ葉剤による奇形児のホルマリン漬けの標本があり、その前で多くの見学者が眉(まゆ)をひそめて立ち止まっていた。 民芸品を扱う工房を訪問した。そこには車椅子(いす)で生活する身体障害者が多く見られた。これまたベトナム戦争時の米軍による枯れ葉剤や不発弾の影響によるものだという。枯れ葉剤の影響は第三世代まで認められ、第四世代についてはこれからの確認作業が必要とのこと。実に恐ろしいことである。刺繍(ししゅう)や漆工などの手作業が身障者の自立を助けるものとなっている。 翻って、日本を見ると、世界遺産である広島の原爆ドームに限らず、郷里の群馬にもたくさんの戦争遺跡がそこかしこにある。県立歴史博物館の所在する高崎市岩鼻町には旧陸軍の火薬庫があった。太田市菅塩町には子供のころに遊んだ防空壕(ごう)がある。これら身近な戦争遺跡を負の遺産として永く保存・継承し、平和教育に活用したいものである。 (上毛新聞 2008年2月25日掲載) |