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◎自分で料理してみる 仕事で料理を作っていると、自分が食べるものくらいは他人が作ったものを食べたいと思うことがよくあります。毎日家族の献立を考えなくちゃならない主婦が、たまには外で食事をしたいと思うようになる、というのに似ているかもしれません。 それとは別に、料理する仕事そのものが商売ばかりに偏るとまた、仕事以外は料理をしたくないというふうになります。自分のために料理を作っても一円にもなりませんからね。 あまりにそれが身についてしまうと、今度はすべての労力を対価計算するようになる。オイオイそれはどうなんダイネと、自分に問うわけです。 得だからこれをやる。損なことはしない。このモノサシ、とてもわかりやすいからみんなに採用されます。 厄介なのは、これで測れるものの浅さに気づいても、なかなか振り払えないということ。どうもアタマはわかりやすさを求めるようで。 ある作家の言葉です。 「今の経済には、“一つの方向性”しかありません。つまり、“利潤を得る”です。…しかしだからと言って“経済=利潤を得るもの”ではありません。経済とは“ただ循環すること”です」 うん、これはわかりやすい。 ある学者の言葉です。 「長い間自然の中で生活していると本当は“死”というものがないんだということがよくわかってきます。あるのは命の“循環”だけなのです」 死が、ない? いいですね、こういうの。こういうわかりにくさ。 話がそれました。 最新の食料白書によると、晩ご飯を一人で食べることがよくあると答えた子供は、小学生で一割、中学・高校生で三割になるのだといいます。 一概にはいえませんが、そのくらいにつまり、忙しいのです。家族全員が食卓を囲んでいた時代からみれば明らかに生活はよくなっているはずなのですが、それを追いかけるようにまた、時間に追われる生活になってきているようです。 追いつけ追い越せといっていろんなものを追い越してきて、いつまでたっても追い越し尽くせないというやるせなさ。シジョウゲンリというのはなんとも皮肉です。 カネは天下のまわり物、なんて言いますけれど、まわしたほうがいいものは、ほかにもたくさんあるのかもしれません。人の心だとか、命だとか。 せめて何かできることはと考えてみて、自分で食べるものくらいは自分で作ろうと思い至りました。料理というのは、直接命に触れること。命がまわる現場に立ち会うこと。してみればこれも、大事な経済活動なのではないでしょうか。 (上毛新聞 2008年2月19日掲載) |