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◎日本文化に根ざす感覚 前回(二○○七年十二月十九日付)は美術館に足を運びましょうと書きましたが、今回は大学の美術教育の現場にいて思うことを書きたいと思います。 私の勤める東京芸術大は、前身である東京美術学校創立以来、百二十周年を迎えました。その二代校長の岡倉覚三(天心)は、実質的に芸術大の美術教育を確立した人です。天心は『茶の本』を英文で書き有名ですが、それ以上に多方面にわたり日本美術に貢献した人です。昨年秋に東京芸術大・大学美術館で「岡倉天心」展が開催されました。 当時、廃仏毀釈(きしゃく)運動により、めちゃめちゃになっていた文化財を保護したこと。美術館・博物館行政の礎を築いたこと。社会と美術のかかわりを模索したこと。そうした業績がありますが、何よりも日本美術の評価を正しく方向付け、美術大の教育の在り方を決定したことに、天心の凄(すご)さがあると思うのです。 東京美術学校を創立するにあたり、日本画、彫刻(木彫)、図案(彫金、漆芸)の三つの部門でスタートさせました。ちなみに木彫は、高村光雲(光太郎の父で、東京・上野の西郷隆盛の像の作者)が教授として配属されています。先にも書きましたように英文で茶道の本を書くような人ですから、欧米の美術事情にも精通した人です、後にはボストン美術館に勤めてもいます。しかし、天心はあえて日本の伝統部門のみから立ち上げて大学教育を始めました。私は天心の先見性をここに感じます。 十年ほどして天心は自身の問題もあり、西洋派(とでも言いましょうか)の人たちから学校を追われます。洋画(油絵)やロダンに代表される西洋塑造を教育の中心に、という流れに逆らうことはできませんでした。日本人は新しいモノが好きです。昔からそれは変わりません。ある意味、それは大切なことですが、一つの方向への極端な流れは問題を残します。 平成の現在、地球は狭くなり、多くの美術家は若い時から欧米の新しい美術を現地で見ることが簡単になりました。明治時代は船で何カ月もかけてヨーロッパに行き、留学しました。見るものすべてが新しく魅力的に見えたことでしょう。多くはそのスタイルを全面的に受け入れ、日本で評価を得ることができました。しかし、今はそのような方法では、作家として評価される時代ではありません。国際化したからこそ日本文化に根ざした感覚や表現などに、作家の考え(哲学や美意識など)を反映したものが大切になっています。天心はそのことを分かっていた人だと思います。だからこそ美術教育の基礎を日本美術のオーソドックスなものに置いたのだと思うのです。 実はこのことは美術以外でも、工業的なものなど何であれ、創造にかかわる仕事すべてにいえることではないでしょうか。明治に入り、いろいろなモノが日本に入ってきました。ただ取り入れるだけでなく自分のモノにするためには、日本に流れている文化の上に育てていくことが大切だということを、美術を通しても見ることができるのではないでしょうか。 (上毛新聞 2008年2月14日掲載) |