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◎正直が生業の出発点 倫理、道徳を無視した経済は、「金銀が氏系図」(井原西鶴『日本永代蔵』)とばかり、なりふり構わず突き進む。賞味期限切れ、耐震強度の偽装など意に介さない。だが、当分の間は誤魔化(ごまか)せても、天知る、地知る、我(われ)知る、人知るで、いずれ万人の知るところとなる。なぜならば、お天道(てんと)様はお見通しだからである。 倫理、道徳を無視した経済主義は、天に唾(つば)をするようなものであろう。そうした行為は、「利に則(したが)えば怨(うら)み多し」であって、いずれ「甘き毒を食らって自死する」(石田梅岩『都鄙(とひ)問答』)に至るは目に見えている。「信なくば立たず」である。テレビの前で頭を下げればいいという問題ではないはずである。 もともと倫理、道徳と経済は表裏一体であったはずである。「世の中を平らにし、民を救う」。つまり、市民、国民を豊かにし、困っている人がいないようにしてやるところに、経済本来の相すがたがある。 「経」の字は機織りを表し、縦糸に横糸で織りなす布が平らであるように、人々を平らにしてやるということである。他方、「済」の字は黄河の氾濫(はんらん)がもたらした副産物を表し、過不足なく水を調整してやるということを意味していた。黄河を見るのに最適といわれている中国・済南市は、文字通り済水の南に建設された都市という意味である。それゆえ、経、済はどちらも、市民、国民が安全で、安心して暮らしていけるようにするという意味を持っていることを忘れてはならない。 歴史は、道徳、つまり人の生きかたと経済が表裏一体であることを教えている。民が豊かにならずして、経済本来の相はない。一部の者のみの富は本来の富ではなかろう。ましてや、消費期限を偽って「二重の利」をせしめる富などは論外である。 近年、経済と倫理、道徳が何か別物のように論じられ、カネが正義であるかのような風潮が蔓延(まんえん)している。カネの魔力には勝てない。カネさえあれば、すべて目的を達成することができると錯覚している。だが、カネが支配する世界では、価値観が転倒してしまう。こうした世界では、作品の出来栄えが劣化し、本物の文化が育たない。つまり、「半文化」、中途半端な文化しか育たないからである。おカネはあくまで貴い文化的価値を追求するための手段であることを忘れてはならない。 「売り手の幸せ買い手の幸せこそ商いの本意なれ」(石門心学、鎌田一窓)が原点ではなかったか。正直を旨とすることが生業(なりわい)の出発点ではなかったか。孔子は生業のあるべき道を、「理に則えば裕なり」と謳(うた)っている。今、日本に一番必要とされているのは、正直、誠の精神である。 「誠は天の道なり、これを誠にする人の道なり」(『中庸』) (上毛新聞 2008年2月6日掲載) |