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◎「正確」を超える魅力 季節柄、忘年会・新年会の後、カラオケに行かれた方も多いのではないだろうか。最近のカラオケは装置が進化していて、歌った後、ご親切にも採点して画面に点数を表示してくれることもある。リズムや音程が「正確」だと高得点になるようだ。 学校の音楽のテストでは「正しく歌う」ことを、合唱や合奏ともなれば指揮をする先生から「ほらほら、よく見て、みんなきちんと合わせましょうね」と指導を受けた覚えのある方は多いだろう。全員が一糸乱れず正確に歌えたら一等賞といったところか。ところが、これが面白くも何ともないことにやがて気がつく。 現在、ある音楽の演奏能力検定試験の試験官をしているが、その事務局には「正確に弾いたのに、なぜ合格できないのか?」と問い合わせる全国からの電話が鳴る。中には「前回受験した時はミスタッチをしたけれど、今回はミスがなかった。だから前回より高い点数になるはずだ」といった具体的!?な指摘もあるようだ。 もちろん正確な演奏にはある種の形式美が存在するし、それはそれでひとつの表現法でもあろう。しかし「正確」にできるという技術は演奏力の一部にすぎない。正しく話せたということと、相手の心に響くということは別ものだ。 微妙な「間(ま)」や「ずれ」が時として大きな説得力を持つことに気づけば、拍子どおり、楽譜のリズムどおりではなく、少し「タメ」や「ずれ」がある歌い方を研究するようになる。カラオケで高得点とはいかないが、大きな拍手がもらえる究極の方法だ。 折しも試験シーズン。教えている大学では音楽の実技試験に向けて、学生たちが良い演奏ができるようにと必死で練習中だ。中には私のこの話から、練習不足はとりあえずこの究極の方法でカバーしてしまおうという、名案を思いつくこともあるようだ。 しかし、じきに、熟練がしかける「ずれ」は「ゆらぎ」となり情感を表すが、未熟だと「よろめき」となりトラブルを引き起こすことに気づいてくれる。迷案になってしまったその企ては、基礎練習の大切さと土台のないことの危うさを実感させるきっかけとなる。 正確にできるという技術は単なる出発点にすぎない。その向こうにあるものに気づき、それに向かって歩きだすと、その道はがぜん面白く、景色は大きく広がる。 「ゆらぎ」や「ゆとり」は蜃気楼(しんきろう)のように魅惑的だが、とらえどころがない。それゆえに、何かが失敗するとそしりの対象になってきた。砂上の幻想に終わるのか、人を育(はぐく)み心に響く存在として現れるのか。芳醇(ほうじゅん)な香りをききに歩を踏みだそうとする時、いつも私は足元の土を踏みしめてみる。 (上毛新聞 2008年1月23日掲載) |