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◎現代に新しい意味持つ 新島襄は一八八二(明治十五)年七月三日、京都の私宅を出発し、中山道を主に徒歩で旅している。両親のいる安中に九日間かけて到着した。同行したのは、七五(同八)年に創立された同志社英学校の教え子たちであった。徳富猪一郎(蘇峰)、横井時男、湯浅吉郎(半月)らであり、のちにジャーナリスト、同志社社長、詩人として活躍した人たちで、初期の同志社の学生であった。 徳富蘇峰はのちに、この時の旅の様子を『蘇峰自伝』において回想して書いている。「当時先生も頗る元気であって、いずれも膝栗毛で中仙道を歩いた」「別段この旅行には、苦情や面倒もなかったが、恰も雨期であって、景色を賞するよりも、むしろ道路の嶮悪なるには聊か困った」。このあと一行は安中から福島、山形へと旅を続けた。 安中に滞在中、新島襄は原市で地方教育論について講演し、次のように述べている。 「わが国の現在の教育は中央の教育に集中し、どんな学問でも中央に行かなければできないという状態になっている。また、中央の地で受ける悪影響によって学生が腐敗することが多いうえに、学生を感化し養成する勢力が弱いので、今日の情況から論じると真正の教育は地方で実施することが望ましい」 新島襄は地方(地域)における人材の育成こそ重要であると考えていた人であった。その具体的な方策として、地方(地域)の有志が募金をし、ふさわしい人を選んで教育にあたらせることが必要であると考えていた。地方の学校で学び教育を受けた人は、いったんその地方(地域)に事が起きたときは地方の指導者となり、地域の中核となることを望んでいた。そうすれば、わが国は発展し、民権が生まれてくると期待していた。 この考え方に基づき、新島襄は自らの主導により、同志社分校ともいうべき東華学校を仙台に設置し、校長に就任している。 私は新島襄が幕末に国禁を犯し、アメリカに渡って学んだ学校を訪れたことがある。フィリップス・アカデミーも、アーモスト大学も、アンドーバー神学校もボストンから遠く離れたマサチューセッツ州の地方(片田舎)にある。しかし、現在でもこれらの学校には全米各地から若者が来て学んでいる。中でもアーモスト大学は、内村鑑三も学んでいるが、小規模なカレッジであり、一般教養を重視するリベラルアーツ・カレッジとして全米のトップの地位を占めている。新島襄の地方教育重視の考え方の原点には、若き日の貴重な体験があるのではないかと考えている。 今、真の地方分権の推進が叫ばれ、具体的に実施に移されるとともに、分権型社会の創造が強く求められている時代にあっては、個性と特色を持った学校が地方(地域)に存在し、新しい人材を育成していく必要がある。新島襄の地方教育論が新しい意味を持っている。 (上毛新聞 2008年1月21日掲載) |