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◎「公害の原点」に潜む原点 防衛装備品納入をめぐり便宜を図った見返りに、防衛商社「山田洋行」の元専務からゴルフ旅行などの過剰な接待を受けていたとして、守屋武昌前防衛事務次官が昨年十一月末、収賄容疑で妻とともに逮捕された。守屋前次官は、先に行われた参院の証人喚問で、元専務との宴席に元防衛相や元防衛庁長官も同席したと実名を挙げて証言したが、名前を言われた政治家は「記憶がない」とか、「アリバイがある」と言って否定している。真実は何か。東京地検特捜部の今後の徹底究明が待たれる。 政官財の癒着や入札に関する談合が問題になると、その根源には官僚の天下りがあるといわれる。今回の場合も、防衛予算にかかわる備品等の受注額が多い企業ほど自衛官の天下り数が多い、という報道もある。私は、このような報道に接するなかで、百年以上前の足尾鉱毒事件のときにも高級官僚の関連企業への天下りがあったことを思い出した。 足尾鉱毒事件は、渡良瀬川の上流で古河鉱業が操業していた足尾銅山から流れ出た鉱毒で、流域住民が深刻な被害を受けたという、わが国の公害第一号である。鉱毒の被害は最初、魚類の大量死で顕在化したが、一八九○(明治二十三)年の大洪水で鉱毒被害は魚類から農作物へと拡大した。九六(同二十九)年の大洪水の時にはさらに拡大し、群馬、栃木に加えて茨城、埼玉、千葉の三県を含む約三万四千ヘクタールの農地が被害を受けた。浸水した戸数は一万八千戸に上ったという。 当時、栃木県選出の衆院議員田中正造が、鉱毒問題の解決のために命がけで闘ったという話は広く知られている。しかし、富国強兵・殖産興業政策を推進していた政府は、田中正造の訴えに耳を傾けなかった。政府の対応に憤慨した被害民は大挙して上京し、足尾銅山(古河鉱業)の鉱業停止を求めて政府に直接請願する「押出し」という戦術に出た。その第一回は九七(同三十)年三月二日、第二回は三月二十四日。 被害民のこの大衆行動には、さすがの明治政府も重い腰を上げた。政府内に鉱毒調査委員会を設置して、鉱毒問題の処理を諮問したのである。被害民は調査委員会に期待したが、委員会の実際の論議は鉱業停止の方向ではなく、古河鉱業に対する予防工事の命令であった。東京鉱山監督署長南挺三から五月二十七日に出された三十七項目に及ぶ工事命令は、各工事別に期限が決められ、期限内に完成しなければ鉱業を停止するというものであった。 多額な工事費と多数の作業員を必要とするこの大工事は困難を極め、古河鉱業にとって重い負担になった。足尾町はこの時、一戸一名ずつを手弁当で動員したという。このようにして古河鉱業は、何とか期限内に工事を完成させて鉱業停止を免れたのである。 ところが、命令を出した南は、工事完了後に間もなく署長を退いて古河鉱業に入社し、四年後には足尾鉱業所長に就任しているのである。 足尾鉱毒事件は公害の原点といわれているが、私は、官僚の天下りでも原点ではないかと思っている。 (上毛新聞 2008年1月11日掲載) |