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弁護士 丸山 和貴(前橋市大手町3丁目)

【略歴】 東京大法学部卒。1981年弁護士開業。91年度群馬弁護士会副会長、2006年度同会長。前橋市の教育委員、都市計画審議会委員などを務める。

裁判員裁判の導入控え

◎瓦解させない議論を

 裁判員の参加する刑事裁判に関する法律が二○○九年五月までに施行されることになっている。つまり、あと一年半ほどで、市民が殺人等の重大事件について、裁判員席に座る。

 法曹三者(裁判所、検察庁、弁護士会)の準備は急ピッチで進められているようだが、市民の関心はいまだ薄いというのが現状で、仕事が忙しく参加の暇がない、法律の難しいことは分からない、刑事法廷に行くことには拒絶反応がある等の消極的反応が多い。関心を示す人も、裁判員に選任される確率や、拒否理由等、いわば個人的な影響を知りたいようだ。

 これは、無理もないことではあるが、導入を控え、「なぜ裁判員裁判なのか」という点をあらためて考える必要があることを指摘しておきたい。

 というのは、この制度は必ずしも市民の要求で採用されたとは言い難い側面があるし、何より、市民の不安に対し、「いや、ご心配には及びません。刑事裁判というのはそれほど難しいことではありません」と説明することに違和感を覚えるからである。誰が担当しようが、人が人を裁くことが重いことであることは間違いない。

 裁判員裁判は、一九九九年七月に内閣に設置された司法制度改革審議会の、二○○一年六月十二日付意見書を出発点として立法化された。最近の「改革」によく見られる手法である。意見書は、二十一世紀の司法に期待される国民の役割として、司法の運営に主体的に参加し、国民のための司法を国民自らが実現し支えなければならないとし、裁判員裁判の導入を提案している。最高裁判所のホームページも、裁判員裁判導入の理由を、「裁判を身近で分かりやすいものにする」「司法に対する国民の信頼を向上させる」ためと説明している。先進諸外国では国民が裁判に参加する制度が行われている旨の説明もある。

 言うまでもなく、国民は主権者であり、司法も権力作用の一つであるから、観念的にはこれらの説明はもっともな説明かもしれない。また、先進国で例外なく導入されていると聞けば、日本人の常として、日本も見習うべきということになるのかもしれない。

 しかし、読者の皆さんは、先の説明で十分得心がいくのであろうか。国民の司法参加の手法としては、例えば、実際の裁判は職業裁判官に委ね、その結果を一般的に看視する手法もあり得る。選挙で裁判官を選任する国もある。

 いまさら制度論かという反論はあるだろう。しかし、そもそもなぜ裁判員裁判なのかについて、あらためて国民的な議論をしておかないと、この制度が瓦解する可能性もなしとしない。説明をする司法の側も、この点を十分に説く必要があろう。戦前の一時期に陪審員裁判を行っていたこともあるが、それにしても裁判員裁判の開始は、刑事司法の重大な変革である。「急がば回れ」という言葉に思いを寄せる必要があるのではないかと考えている。






(上毛新聞 2007年12月13日掲載)