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県立女子大准教授 権田 和士(東京都豊島区)

【略歴】 旧尾島町(現太田市)生まれ。金沢大文学部卒。東京大大学院修了。太田東高、恵泉女学園大などを経て、県立女子大文学部准教授。日本近代文学。

進路を考える

◎学問の本質を見つめて

 高等学校などで進路に関する意見交換をする機会が時々ある。そのようなとき、文学部の教員としては、高校生が進学先として文学部をどう捉(とら)えているのか、また保護者はどう考えているか、という点がやはり気にかかる。高校の先生方からは、文学部を志す生徒数は以前とあまり変わらないが、保護者の方々は文学部への進学に不安を感じ法学部や経済学部などへの進学を望む傾向が見られる、という回答を得ることが多い。

 私が学生だった二十年前までは、文学部の学生の多くは教員となっていった。本人の希望とは別に、外部から見れば、進路が限定されていたと見る向きもあったろうと思う。しかし、学生の志向もずいぶん変わってきた。

 現在では、文学部の学生たちの就職先は教員だけでなく、金融機関や製造業や流通などあらゆる業種に及んでおり、就職率も実学系の学部と変わらない。文学部の学生たちは、法律や経済などを学んだ学生に伍(ご)して就職活動を行い、よく健闘している。文学部の学問は「役に立たない」と思われがちだが、学生諸君の健闘は、そうした先入観を覆すに十分であろう。

 文学部の学生にとって武器となるのは、言葉について真剣に考えた経験である。例えば、夏目漱石の『坊つちやん』という文学作品について研究しようとするとき、その作品の解釈の歴史をたどる作業が求められる。そうした作業の中で学生たちは、言葉の豊かさや難しさに否(いや)応なく気づかされる。同じひとつの言葉が、それを発したり受け取ったりする人それぞれのあいだで、無数に異なる意味や価値やニュアンスとともに行き交うありさまを目撃するからである。

 考えてみれば、社会活動において最も重要なものは、他者とのコミュニケーションである。そして人間のコミュニケーションは、おもに言葉を介して行われる。その言葉についてさまざまな角度から学ぶ場所こそ、文学部にほかならない。時空を超えて他者の発した言葉と向き合う修練を積んだ文学部の学生たちは、その言語感覚を磨くことによって、実際のコミュニケーションにおいても、すぐれた言語運用能力を発揮していると思われる。

 しかし、そうした現実世界における効用は結果であって、目的ではない。学問は本来、「役に立つかどうか」という功利的な視点から自由に、対象それ自体の意味や価値を明らかにすることを目的としている。このことは、「役に立つ」という点を前面に押し出している、いわゆる「実学」についても当てはまる。あらゆる学問は、人間や世界をどう捉(と)らえるかという哲学的な問いと結びついた、その学問固有の動機を持っているからである。

 現在大学で学んでいる学生諸君も、これから大学に入ろうとしている受験生諸君も、学問が持っている本質的意味や価値を見つめて、みずからの進路を決めてほしいと思う。






(上毛新聞 2007年11月16日掲載)