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◎発想の転換の訓練から 「これ、三日月のほかは何に見える?」 教室の黒板には、黄色い画用紙を三日月の形に切り取ったものが張ってある。 「クロワッサン!」 すかさず一人の子どもが手を挙げる。 「ブーメラン」「笑った口」「バナナ」「帽子のつば」「ゴンドラ」などなど、ほかの子どもたちも次々に続いて、ちょっときりがないくらいだが、頭の中で想像の翼を広げ、さまざまに思いをめぐらしている子どもたちの顔は、確かに、みな生き生きと輝いている…。 これは、ある小学校で六年生児童を対象に行った俳句授業でのひとこま。三日月形の紙から、三日月以外にどんなものを思い浮かべることができるか。多角的なものの見方と、発想の転換をうながすための導入部であるが、子どもたちは根が素直だし、頭も十分に柔らかいから、こちらの意図にすぐ反応してくれる。 ところが、これが大人となると、容易にこうはいかない。ためしに、私が指導している俳句会の中高年の会員諸氏に同じ問いかけをしてみたが、反応はあまり芳しいものではなかった。三日月が、三日月にしか見えない。このように固定観念にとらわれ、頭が硬直してしまうというのは、俳句を作る上だけでなく、私たちの日常生活全般においても、決して好ましいものとはいえないだろう。俳句授業を通し、逆に子どもたちから教えられることの一つに、こうした点がある。 ところで、俳句授業というと、児童生徒に一斉に俳句を作らせ、それを講評してゆく形を想像される向きも多いと思うが、日ごろから俳句創作に取り組んでいる学校ならばともかく、そうでない場合、この方法が最善であるとは少々考えにくい。言うまでもなく、短時間で手際よく俳句を書ける子どもがいる一方で、自己の内面でじっくりと思いを温め、時間をかけて言葉にしてゆく子どももいるからである。それゆえ、俳句創作の前段階として、冒頭で触れたやり方を用いているわけであり、また、多角的なものの見方や発想の転換の重要性などをある程度理解した上での方が、子どもたちの俳句の水準も高いところからスタートすることができるのは確かだ。 「発想を変えてものを見る、ということを授業で教わったので、実際に休み時間に遊びながら観察してみた。そうしたら五年間ずっと何げなく見ていた校庭が、少し見方を変えただけで、まるで違って見えた。私は五年間、何を見ていたんだろうと思った」 授業を受けた女子児童の感想を要約したものだが、このように子どもたちには、わずかな示唆で即座に変わることができるすばらしい力がある。ただ、これは裏を返すと、現在の学校では、子どもたちが「発想を変えてものを見ること」を学ぶ機会が少ないという状況を物語っているのかもしれない。だとしたら、俳句などを通して、それを学ぶきっかけを与えることも必要なのではないだろうか。 (上毛新聞 2007年11月9日掲載) |