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◎上毛野の地域力を思う 群馬県地域において造られた前方後円墳は、一九三五(昭和十)年、県下一斉に行われた古墳調査では三百九十五基があるとされた。しかし、現在では区別している帆立貝(ほたてがい)形古墳もそれに含めてカウントした調査者がほとんどなので、実際の数はかなり下回る。その半面、見落としたものもあるが、その後の調査等で推定できた実数は二百基を大幅に上回るものではない。地域を支配した豪族層に広まった前方後円墳は、豪族の政治的権威を表徴する墓制であり、無秩序に造られたものではなかったからである。群馬県地域の前方後円墳は四世紀中葉から六世紀末までのほぼ二百五十年間に造られているが、各時期を通して東国最大のものは群馬県域にあり、その最大規模の古墳が太田市にある五世紀中葉の天神山古墳なのである。 そうした群馬県域の前方後円墳発展の歴史を見ると、太田天神山古墳以後、前方後円墳は、一時、井野川地域、すなわち、榛名山南面の地域を除いて途絶える。替わって帆立貝形古墳が目立つようになる。この時期の前方後円墳の地域間の消長は、車持(くるまもち)氏系氏族の毛野国(けののくに)への進出と関係があり、それは毛野国から上毛野国(かみつけののくに)への成立に連なる県域の変貌(へんぼう)を伝えるものにほかならない。 かくして六世紀になると、県域の古墳分布の中心は、中・西毛地域にシフトしたかの様相が目立ち、前方後円墳の造営も、あまねく復活するが、この時期のきわだった文化事象として注目されるのは、横穴式石室が導入され発展したこと、埴輪(はにわ)が独自な発展をしたこと、大陸文化の影響が濃厚な金工芸品などが普及したこと等々あるが、なかでも馬の飼育が広まったことであろう。焼き物、染織物の発達もあり、文字の普及も進んだと思われる。われわれが経験した“高度成長”のごとき時代がもたらされたといっても過言ではない。 そうした中、大和政権の中央地域では前方後円墳の造営は衰退の兆しを見せていくが、県域、すなわち上毛野国地域では依然として盛んで、六世紀代にあっては大和地域よりも数は多い。しかも、引けを取らない立派な古墳が造られている。その代表といえば、高崎市の八幡観音塚古墳や綿貫観音山古墳である。前者は巨岩を用いた石室、後者は榛名山の軽石をブロック形に加工した石材で側壁を積んだ石室。ともに、豪華な副葬品で知られている。 近年、欽明天皇陵とされる大和最大の前方後円墳・見瀬丸山古墳の横穴式石室が明らかにされたが、その巨岩で構築された石室は、玄室のプランとその床面積が綿貫観音山古墳のそれと同形、同大である。何故に、天皇陵に匹敵するような墳墓を造りえたのか。上毛野国の豪族とはどういう氏族だったのか。そして、それをなさしめた上毛野の地域力の大きさを思わずにいられない。 そうした時代の事象の根源が何だったのかを知ることは、われわれの時代の県域を考える上で共通する課題であり、示唆に富むものと思う。 (上毛新聞 2007年10月13日掲載) |