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◎危機的状況への即応を 一九四五(昭和二十)年四月七日、齢(よわい)七十七、一見茫洋(ぼうよう)とした老人に大命は降下した。彼は、「自分は耳は遠いし、軍人で政治を知らないから」と何度も就任を拝辞した。しかし、昭和天皇から「気持ちはよくわかる。しかし、この国家危急のときに、もう他に人はいない。まげて承知してほしい」と言われて、この老軍人は終戦のため帝国の「幕引き役」を引き受けた。当時は、帝国陸軍が徹底抗戦を主張する中、この陸軍をおさえて終戦に導くことは死を覚悟するほどの困難を極める状況であった。 彼は、八月十日、天皇の「ご聖断」という形でポツダム宣言受諾を決し、同月十四日に閣議で降伏の手続きを整えた。そしてその夜のうちに首相官邸を出て、小石川の私邸に移動、さらに本郷の妹の家へと避難した。はたして翌十五日午前四時、首相官邸を百人の陸軍部隊が襲撃。不在とわかると私邸が焼かれた。殺害に失敗すると、今度は玉音放送ができないようにするため、近衛師団長を殺害し、偽の命令を出し、徳川義寛侍従(後の侍従長)を殴り、玉音放送の録音盤を奪おうとした。もし彼が、そのとき官邸で絶命していたら、終戦は相当に遅れ、日本は米ソに分割されていたにちがいない。 彼の鋭い勘と素早い動きの背景にはある経験があった。彼は、三六(同十一)年の二・二六事件のおり侍従長をつとめていた。突然の襲撃に避難できず、反乱兵に「撃て」と命じて三発の銃弾をくらいながら、一命をとりとめた(安藤輝三大尉がとどめを刺さなかったのは、孝子夫人のおかげである)。このときの経験が生きたのだ。 八月十五日正午、玉音放送が予定通り流された。彼は、帝国海軍軍人として生き、帝国日本の「幕引き」の役目を果たし、同日午後三時半、内閣総辞職をした。形式上は、阿南惟幾(あなみこれちか)陸相の自決(「一死を以(も)って大罪を謝し奉る」という血染めの遺書で有名)により陸相が欠けたことが原因だが、政治的には「帝国の滅亡」に殉じたのである。極限状況において人の真価は現れる。命を賭して使命を果たす者、自決する者、逃げる者、いろいろだ。彼とは、鈴木貫太郎第四十二代内閣総理大臣である。 ところで、彼は千葉出身ということになっている。ただ、生まれは大阪で、旧制前橋中学を出て、海軍兵学校に進学している。私自身は、彼も「上州の生んだ総理大臣の一人」と常々主張しているがどうだろうか。 そして今、上州から戦後四人目の総理大臣が誕生した。しかも、父子で総理というのは憲政史上初めてだ。現代を敗戦という国難と比べるのは少し無理があろうが、国内は少子高齢化と八百兆円の借金、世界は地球温暖化と資源・食料の不足という危機的状況が予見できる。上州出身の総理には、危機的状況に即応して国運を盛りたてる力があると期待している。そしていつの世でもよき指導者には「強運」と健康の双方が大切だ。 (上毛新聞 2007年9月29日掲載) |