視点 オピニオン21 |
■raijinトップ ■上毛新聞ニュース |
|
|
◎100年の歴史祝いたい 日系人百五十万人といわれるブラジルだが、移住の歴史を振り返ると、一九○八(明治四十一)年六月十八日、笠戸丸乗船の第一回移民百五十八家族、七百八十一人がサントス港に上陸したのが最初であった。以来、戦前に約十八万人、戦後約六万人が移住している。五八(昭和三十三)年の移民五十年祭での笠戸丸生存者は百五十八人であった。ところが、八八(同六十三)年の八十年祭では五人となっていた。祭典参加は二人であった。 祭典は、礼宮文仁殿下(秋篠宮さま)、サルネイ大統領をはじめ各界から多数を迎え、パカエンブー競技場に八万人の日系人が集まり盛大に催された。祭典での圧巻は、一万五千人による「祝・日本移民80年祭」「礼宮さま・ようこそブラジルへ!」など日伯両語による一糸乱れぬ百四十景の人文字。列席者に強烈な印象と感銘を与え、日系社会の団結と底力を誇示するにふさわしいものであった。 いまや各方面に進出し、輝やかしい地歩を築かれた二世以下の雄姿を知る一人として、来年六月の百年祭は大いに期待している。 本県からの移住者は、戦前約二千人、戦後約千三百人で、本県ゆかりの人は二世から四世までを加えると五千家族以上と推定され、海外移住の中でブラジルが最も多い。 移住第一号は、一七(大正六)年の子持村(現渋川市)出身の生方松四郎・房吉兄弟であった。しかし、笠戸丸移民を現地で迎え世話をするため、シベリア経由で先発した通訳五人の一人に高崎市出身の嶺昌(後に領事)がいた。 次は、前橋市出身の石原桂造で、一三(同二)年に船員として渡り、苦労の末、ホテル経営で大成した。情愛に厚くパパイ(おやじ)と慕われ、四五(昭和二十)年に県人会を結成して会長となった。また、日系老人ホームの設立運営に尽力し、勲五等瑞宝章に叙せられた。没後、サンパウロ州政府は遺徳をたたえ、中学校の一つを「ケイゾー・イシハラ」と名付けた。 県は、八○(同五十五)年八月、サンパウロ州と姉妹州県提携を締結している。また、高崎市はサントアンドレ市と、大泉町はグアラチンゲター市とそれぞれ姉妹都市提携を結んでいる。 九八(平成十)年に開設され、二○○五(同十七)年の万博で「愛・地球賞」に輝やいたアマゾン群馬の森は、森林保全、環境教育の一環として一九九九(同十一)年以来、植樹団百十四人、こども緑の大使五十二人が派遣されている。 他方、人材の育成では、留学や技術研修員受け入れ事業を終えて帰国した二百十人余りの子弟が、それぞれの分野でブラジル社会の発展に寄与し、大いに感謝されている。 また、上毛新聞社では、移民八十年を記念して十五人から寄せられた苦闘の手記「南十字星に空っ風―群馬県人のブラジル移住記」を八九(同元)年に刊行している。ぜひ一読願い、上州人の生きざまを理解されたい。来年の百年祭は、移住者とともに祝い、喜びを分かち合い、共感できる機会でありたいと考えている。 (上毛新聞 2007年9月25日掲載) |