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写真家 田中 弘子(東京都小金井市)

【略歴】 東京生まれ。群馬県の養蚕・蚕糸絹業の写真「繭の輝き」が2006年第15回林忠彦賞を受賞。東京の河川等のドキュメンタリーを追う。日本写真協会会員。

座繰り糸

◎女性が支えた伝統産業

 赤城山すそ野の中腹に位置する富士見村で、座繰りの糸を引き続けて三十数年、丁寧な仕事をすると定評のある関口房子さんだが、長年連れ添ったご主人の倉平さんが、今年の三月亡くなられた。

 いつもきちんと地下足袋をはき、かまどにまきをくべたり、水くみの仕事を受け持って、ご夫婦二人、力を合わせて座繰りの糸を引き続けていた。

 猛暑の続く先月、関口さん宅に新盆のお参りにうかがった。部屋には天井まで届く竹で四隅を組み立てた昔ながらの盆棚と二本の灯とう籠ろうが置かれていた。心を尽くし時間をかけて新盆を迎えた家族の思いが伝わってくる。

 世代の違う親族の方々の昔話を耳にして、今までの座繰りの撮影では気がつかなかった新たなものが見えてきた。それは養蚕農家に生まれ、養蚕農家に嫁いだ女性たちの生活者としての姿だった。

 関口さんに今までの人生で一番苦労したことは何か尋ねてみると、かつて戦時中に、兵隊さんに食料を供出したため「毎日の家族の食べものがなかったことだった」と予想外の言葉が返ってきた。生きていくのが精いっぱいだった生活の中で、子供だけは守ってやりたいと願い「嫁に行ったら、死ぬまでそこにいなければならないという思いで嫁いできたから頑張れた」と当時を振り返っていた。

 さらに嫁ぐ前の話におよんだ。何もない時代だったので、くず繭を使って家族の日用品を機織りで作っていた。それが役に立ち、召集令状の赤紙がきた兵隊さんの服を織ったり、赤城村の人たちから頼まれて、生糸のうちに国防色に染めた太い糸で、すねに付ける脚半を織ったという。お国のために働いてもらおうと一人一人手渡したが、亡くなった人の方が多かったと、六十数年前の話が昨日のことのようにあふれ出てきた。

 今年七十八歳を迎えた関口さんは「座繰りの仕事は、他の人に替わることのできない誇りの持てる仕事」ときっぱりと言い切る。座繰り一筋、精いっぱい生き抜いてきた凛(りん)とした女性の輝きを感じる。

 現在、関口さんが引く良質の糸は日本を代表する染織職人、芝崎重一さんの工房でも使用されている。座繰り糸を引く女性は赤城村を中心にして三十人ほどに減少している。「高齢化が進み、いつ終わってもおかしくない状況にある」と製糸業を営む石田明雄さんは話す。

 養蚕業、製糸業など、長年、日本の伝統産業を支えてきた陰には、表舞台に出ることがなかった多くの女性たちの努力がある。この女性たちが、関口さんと同じように、日本を支える重要な役割を担ってきた。高齢ながら現在活躍している女性たちの努力と功績に対して、今の時代に合った何らかの形で報いることはできないだろうか。

 ちなみに、一九九六年ごろまで過去四十回にわたり、全国養蚕青壮年・養蚕婦人体験発表会が開催され、養蚕業の改善と技術革新等に顕著な貢献が認められた参加者に対しては、皇居内にある紅葉山御養蚕所拝観の機会をいただいたと聞いている。その貴重な体験は大きな励みになったに違いない。






(上毛新聞 2007年9月1日掲載)