視点 オピニオン21
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板倉町文化協会長 小林 新内(板倉町大高嶋)

【略歴】 館林高卒。県社教連合会理事、県防犯協会理事、県少年補導会理事、町区長会長など歴任。現在、県文化協会監事、町社会福祉協議会長も務める。

思い出したくない夏

◎生きた心地しなかった

 「平和の願いを後世へ」。七月十日付の上毛新聞の大きな活字が目にとまった。空襲や戦災を記録する会前橋大会の記事である。筆舌に尽くし難い体験を経て今日を迎えた今、いつか子や孫に話しておきたいと思う一方、あの悲惨な出来事は二度と思い出したくもない。だが、今回はあえて書くことにした。

 一九四五年八月十五日、太平洋戦争は終わった。私が中学二年の夏休み中のことであった。今後どうなるのか不安と絶望に打ちのめされた。しかし、日本が奇跡的な復興を遂げた今、「戦争の悲惨さ」が忘れ去られようとしている。このことは決して風化させてはならないと思った。

 戦争も末期に近いころ、敵機襲来を告げるサイレンが頻繁に鳴り響くようになり、時々米軍のB29爆撃機が空高く真っ白い飛行機雲の尾を引いて飛んで来るようになった。初めて見たその光景は異様な恐怖心を誘ったが、夜になると西の空が真っ赤に染まり、地響きを伴った轟(ごう)音が続いた。農耕用に飼育していた馬が小屋を壊さんばかりに暴れる。

 そんなある朝、登校して驚いた。校庭のど真ん中に直径一○メートル以上もある大きな円すい形の穴が開いていて、校舎の窓ガラスは砕け散り、教室に入ると、手のひらを広げ捩(ねじ)曲げた形の鉄片が壁を破り、柱などに突き刺さっている。前夜の爆撃の跡と分かり、愕然(がくぜん)とし身の毛のよだつ思いだった。

 私の家から学校まで自転車で約一時間かかるのだが、半分ぐらい走った所で突然、敵機襲来のサイレンが鳴った。空襲警報が発令された時は自宅で待機することになっていたので、どうしようか迷った。今にも降り出しそうな空を見上げていると東の方向から聞きなれない轟音が近づいている。何の音かと目を凝らしていると、真っ黒な物体がこちらに向かって迫ってくる。小型飛行機が数機、編隊を組んで超低空で飛んで来たが、ときどき「バリバリ」というけたたましい音がする。話に聞いていた機銃掃射(そうしゃ)というのだろう。急いで道路脇のくぼ地に飛び込み、手で頭を抱えて伏せた。何をする術(すべ)もない。しかも波状的に何回もやってくる。もう生きた心地はしなかった。これでおしまいかと観念したものだ。それ以降、空襲警報が発令される度に自宅裏の竹山に掘られた防空壕に避難した。

 私の妹は四一年十二月八日、太平洋戦争開戦日に生まれたが四五年七月十七日、栄養失調のため四歳で亡くなった。戦争中だけの命だった。広島の部隊で兵役についていた父が外泊で帰宅し、涙ながらに密葬を済ませた。後ろ髪を引かれる思いだったのだろうか、部隊に戻ったその朝八時十五分、原爆に見舞われたとのことだ。建物の下敷きになったがようやく救出されたという。一命は取り止めたものの帰郷後、被爆者手帳を交付されたが、病魔と闘った。

 直接銃こそ持たなかったが戦争のみじめさは身にしみている。武力での問題解決は絶対あり得ないことを世界中の人々が知るべきである。






(上毛新聞 2007年8月12日掲載)