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浅間山ミュージアム代表 飯田 宏朗(嬬恋村大笹)

【略歴】 玉川大文学部卒。1987年に東京都町田市から嬬恋村に移住、建築業と宿泊業を営む。2005年9月から浅間山ミュージアム代表。ぐんまグリーンツーリズムサポーター。

朽ち果てる大正遺産

◎英知集め保存修復を

 長野原町北軽井沢に広がる森の奥深くに、今まさに朽ち果て崩れかけ、コウモリの巣になっている一軒の洋館があります。その洋館が建てられたのは大正八(一九一九)年―十(二一)年ごろと思われ、建てたのは田中銀之助という人です。では、田中銀之助は一体どんな人物だったのでしょうか。

 江戸から明治へと時代が大きくうねり、変化をしたとき、横浜に「天下の糸平」と呼ばれた一人の政商がいました。彼は生糸の取引、米穀の先物取引、鉱山開発と手広く商売を行い、ときの政府の要人たち(伊藤博文・渋沢栄一)と深くかかわりを持ちながら財を成し、田中財閥の礎となった田中平八でした。今は田中貴金属にその名を残しています。

 田中一族の一人として銀之助は生まれました。明治二十九(一八九六)年にケンブリッジ大学に留学し、法学士の学位を取得後に日本に帰国。三十二(九九)年ごろに慶応義塾の塾生にラグビーのルールについて伝えたとされ、日本のラグビーの基礎を築いた人でした。彼もまた田中財閥の一員として企業経営に腕を振るい、多くの企業を経営しましたが、群馬県内では大正十(一九二一)年に経営困難となった下仁田の神津牧場の経営に乗り出しています。まさにそのころ、北軽井沢に洋館の別荘を建てたと思われます。

 建物は百坪(約三百三十平方メートル)近くあり、当時の洋館造りと純和風を組み合わせた建物で、ダンスホールが造られ、洗面ボウルや当時珍しい水洗トイレは英国製の輸入品を使用しています。二つある八畳ほどの風呂のタイルは、高級タイルメーカーだった佐治タイルが特注で焼いたもの。当時としては大変貴重な物であることが分かりました。またその他の建築資材も高価なものを多く使用し、現在であれば超高級別荘であったと思われます。

 ところが、今は見る影もないほど荒れ果てています。所有者が変わり、使用する頻度も少なくなり、自然に壊れてゆくのはしかたないことですが、不心得な人が内部の高級な建材に目をつけ、盗んだのがこの家の壊れる大きな原因となっているようです。これ以上の盗難を防ぐため、浅間山ミュージアムは昨年から現在の所有者とともに有刺鉄線を張ったり、防犯装置を取り付けたりと予防措置をとっています。しかし、いかんせん壊れる速度に追いつくことはできず、手をこまねいている状態です。文化的にも貴重な建物を保存修復しようと思っても金銭的な面では無力なのが現実です。いろいろな方から貴重なご意見を頂くのですが実行するに至らず、歯がゆい思いでいっぱいです。

 浅間山ミュージアムができることは、こんなすばらしい建物があることや、その建物に詰まった歴史を少しでも多くの方に知ってもらい、ご覧になりたい方にはご案内し、ホームページ上で写真を掲載することしかできません。これをお読みになった方で何か保存法がありましたらぜひお教えください。(浅間山ミュージアムのホームページ参照)






(上毛新聞 2007年7月26日掲載)