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◎片品を通った人たち 地元を探訪することは楽しい。名所旧跡を訪ねるのもよいし、歴史的人物を探るのも興味深い。今回は日光白根の懐にある金精峠を通った五人を紹介してみたい。 一人目は米沢藩士で詩人・雲井龍雄二十四歳。一八六八(慶応四)年八月、会津から尾瀬を越えて片品入りし、官軍の陰謀に遭って金精峠から去る。 奥羽列藩同盟を画策するなど強烈な佐幕派だった彼は、沼田まで到達していた官軍と会談するため、投宿先の片品須賀川を出る。旧利根村方面に向かう途中、官軍の急襲を受け、逃走せざるを得なかった。その二年後、雲井は政府転覆罪の名を着せられ小伝馬町で斬首(ざんしゅ)される。 二人目は落語家・三遊亭円朝三十七歳。七六(明治九)年九月、金精峠から来村した。円朝は自作自演の落語家として一家をなした名人。怪談噺(ばなし)「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」や人情噺「塩原多助一代記」は特に有名だ。彼が片品を通ったのは塩原多助のモデル・塩原太助の生地、新治へ取材に行くためだった。 三人目は文学者・幸田露伴二十二歳。八九(同二十二)年四月、金精峠から来村。翌年、片品を舞台にした初期の名作「対髑髏(たいどくろ)」を発表する。 昨年八月、劇団昴(すばる)と片品モナリ座との共演で、拙作脚本によるリーディング・シアター「対髑髏」を本邦初として上演した。これは片田舎の出来事ながら朗読劇史に一点を刻むことができたと自負している。 四人目は植物学者・武田久吉二十二歳。一九○五(同三十八)年七月、初めて尾瀬を訪れるために金精峠を越えて来村した。 武田は『一外交官の見た明治維新』の著者で英国の外交官アーネスト・サトーの息子。彼は父の国で学んだのち、日本山岳会や日本自然保護協会でも力を尽くした。 世に尾瀬の美を伝えたのは武田である。著書『尾瀬と鬼怒沼』で「尾瀬と呼ばれる地方は、風景要素を最も多量に備え、景色ははなはだ複雑し、変化に富む点で、邦内これと比肩し得る地はまれである」と強調する。 五人目は歌人・若山牧水三十七歳。二二(大正十一)年十月、草津、暮坂峠、沼田などを経て来村。片品川の源流、つまり“みなかみ”を見るのが目的だった。この時の紀行文が『みなかみ紀行』だ。 彼は大尻沼で「登り来しこの山あひに沼ありて美しきかも鴨の鳥浮けり」と詠み、菅沼では念願の“みなかみ”を発見し、激しい感動をつぎのように記す。「青い草むらを噴きあげてむくむくと湧き出ている水を見た/とりも直さず片品川、大利根川の一つの水源でもあらねばならぬ」 こういった人たちの生き方に思いを致すとき、通ってもらった、来てもらったありがたさを感じる。土地に名が残るだけで人じん気きがよくなる気がするのだ。 自治体が地方政府として誇りをもたなければならない時代、上述した人たちや孟母(もうぼ)に来てもらえるような土地柄にしていかなければならない。そうしないと、昔から民は黙って抜け出ていく。 (上毛新聞 2007年6月26日掲載) |