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脳機能検診センター小暮医院長 小暮 久也(埼玉県深谷市中瀬)

【略歴】 慈恵医科大卒。米マイアミ大や東北大の医学部神経内科教授、世界脳循環代謝学会総裁など歴任。「明日への伝言」など一般向け著書も多数。深谷市出身。

道徳の基盤

◎誇りを持って生きよう

 山のシーズンがはじまり、五月のある朝、私は赤城の荒山に登ってきた。群馬県の花、レンゲツツジの蕾(つぼみ)はいまだ固く結ばれたままだったが、南に望む前橋、伊勢崎、太田の向こうに関東平野がまぶしく照らされて、その先は美しくかすんでいた。

 足元に見える赤城扇状台地の、富士見村を中心とする一帯はタマネギの産地として知られているが、この地域は西方に広がっている榛名、妙義の山ろくと併せて優良な肉牛の故郷でもある。肉は「上州牛」のブランドで出荷され(他に赤城肉牛生産販売組合からの「赤城牛」も有名である)、国内各地の銘柄牛の肉を相手に健闘している。

 牛は生産者が愛と情熱を込めて育ててきた肉用の黒毛和種だったが、二○○一年十一月にホルスタイン種の雌の老牛にBSE(牛海綿状脳症)が発生した時には本当に大変だったと思われる。「群馬県の牛」というだけで消費者に敬遠され、一時期、町の精肉店やスーパーの牛肉売り場から上州牛、赤城牛の表示が消えてしまった時期もあった。

 しかしそんな中で、高崎市のあるホテルの鉄板ステーキのメニューから上州牛の名が消えたことはなく、その店では、前沢牛や松坂牛と並べて上州牛を従前通りに、そして当然のようにサービスし続けていた。なかなかできることではない。

 風が斜面を涼やかに登ってきて、利根の流れは一段と光を増した。それを目で追いながら、私は子牛の選抜や飼料選びに始まり、牧場での肥育と成牛の売買、さらにそこから枝肉の熟成に至るまでの流通の長い流れに思いをはせた。生産者側には持ち場を異にするさまざまな専門家や技術者たち、そして食の安全と品質を守っている人々の誇りと、それに裏付けられた細やかな気配りと的確な作業があり、消費者側には料理人たちの選んだ食材への自負と誇りと、それを供給した人々に対する絶大なる信頼があった。だからこそ、双方の連帯が揺らぐことはなかったのだ。

 さてしかし私は、肉の話をしようとしているのではない。荒山で、明るい五月の風に吹かれながら私は道徳の基盤について考えていたつもりである。生きるということは、その一挙手一投足が環境と社会に対して影響を与えることにほかならない。家にあっても外にあっても、人は生きているだけで社会の支えになっている。そのことを自覚し、皆が誇りを持って生きていれば、われわれの社会はどんどん良くなっていくと思う。

 しかし、昨今では「誇り」という日本語の輪郭が必ずしもはっきりとしていないことに気がついたので、注釈を試みることにした。他人の目を意識しない、純粋に自分自身の仕事に対する矜持(きょうじ)、そういう誇りを持っている人を指して論語は謂(い)う。「内に省(かえり)みて疚(やま)しからざれば、それ何をか優(うれ)い何をか懼(おそ)れんや」と。






(上毛新聞 2007年6月15日掲載)