視点 オピニオン21 |
■raijinトップ ■上毛新聞ニュース |
|
|
◎文化を創る薫りがする 「青嵐」 夕陽の中で影となったるなぱあくの飛行塔を背に、源永寺の墓地裏、塀沿いの坂道をぶらぶら下って、箪笥(たんす)屋の角を曲がると、ゆっくり歩く茶トラの猫の先に、植え込みに転がり込む二匹の仔猫の姿を見る。 ―仕事と子育てが忙しかった頃、二人の子どもに千円を持たせて「ココで遊んでいてね。」と仕事に行ったんです。仕事を済ませた夕方、遊園地に駆けつけてみると、もう終わってしまった遊園地の飛行塔の下に二人の子どもはたちすくんでいました。夕陽を浴びた二人の子どもの姿が、今も目に焼きついています。思い出すと涙が止まりません。 数日前に届いたメールを思い出す。広瀬川沿いの桜はとうに花を終えて、青葉を風が吹き渡っている。 古き日の波宜亭あたり青あらし (伊藤信吉・一九八八年) そこを暮らしの場として選んだ者に、詩人の回想は、眼前の現実と重なって、まだら模様になる。 × × これは、一年前に書いたコラムの原稿なのだけど、掲載誌が突然出なくなって手元に残ってしまっていたんだ。まちで『Sayan』という雑誌を手にして、やたらとアルファベットと写真が多いページをめくっていたら、ふいと思い出した。 そういえば、私が付き合った雑誌は、もうみんな消えてなくなっちゃった。学生のとき初めて原稿を書かせてもらった経済誌の編集室は、新橋駅に近い路地裏の小さなビルの薄暗い階段を上った三階にあった。 このまちで出会った最初のタウン誌『上州っ子』は、今はホテルになってる昔の前橋商工会議所ビルの二階のめちゃくちゃ狭い部屋に、編集長のSさんが陣取っていた。お友だちの高坂均さんは国道50号の広瀬川の橋を越えた先で、ちんけなアパートの一室を借りて『WIND』を作っていた。雑誌に関係するたびに、雑誌を作る人たちって、ホント凄(すご)いなっていつも思った。ものすごいエネルギーを費やして目前の誌面を作りながら、静かに夢を語る人たちだった。文化を創(つく)るって薫りがして、そこへ行くのが大好きだった。 思い出すと、ちょいとばかりセンチな気分にもなる。 でも、こないだ、養田鮮魚店に行ったら、遠目に見ても見事な魚の絵の看板が掛かっているではないか。県民会館前でイタリアンレストラン『駒蔵』をやっている駒幸茂さんに見事な看板絵を描いてもらって、「どうだ!」って胸張っていた。少しくらい不景気だってめげてないぜ、ヒゲ園長の魚のお師匠さんは。 そうなんだよ、何かが失われるたびに、何かが終わるたびに、めそめそしたって始まらないよね。めげたりしないで、新しい場所や新しいやり方を一生懸命探しながら、したたかにやっていこうぜ。頑張れよ、『Sayan』の学生さん、おじさんも負けないから。誰にも、ひとの情熱を食い潰(つぶ)すことなんてできないのだから。 (上毛新聞 2007年5月25日掲載) |