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◎求められる多彩な能力 アメリカの小説家ダン・ブラウンによって執筆された「ダ・ヴィンチ・コード」が世界的なベストセラーになり、映画化されたことで、昨年さらに話題となったことを記憶しているでしょうか。 その小説の中で描かれた内容もさることながら、ルーブル美術館に展示されている「モナ・リザ」の作者として有名なレオナルド・ダビンチは、この本や映画によって、画家ダビンチだけではなく、建築家や音楽家、演出家でもあり、科学者、哲学者でもあった万能者として日本でも認識された気がします。 実は、フランスやドイツなどの芸術先進国ですと、昔から国公立芸術大学でアートを学ぶ人たちが、ダビンチに象徴されるような「多彩な能力を身につけること=アートを学ぶこと」言い換えれば「アーティスト=多彩な能力を持つ人」であることを要求されている事実は、意外と日本では知られていません。 日本の一般的な認識によると、アートを学ぶことは、デッサンや油絵、彫刻などの専門技術を、写実表現として学ぶことであり「あのピカソでさえ、最初は基本的なデッサンや写実絵画を学んでいたのだから」などと語られたりします。 しかし現在、アート先進国での芸術大学の授業は大きく異なっています。 アートは元々その時代の人々の考え方や人々がまだ認識していない新しい考え方や見方を、アートという形式を借り、今日的問題を後世に残し、伝えていく手段です。 おそらくヨーロッパではルイ十五世やマリー・アントワネットが権力を振るったロココ時代、日本では織田信長や豊臣秀吉の安土桃山時代に、それまでの宗教的思想や哲学的な教えを伝えるために描かれたり建造されたものが、一転、ある特定の人々の趣向や満足のための装飾としてその時期発展した。それまでのアートの役割やその社会性が大きく変化し、装飾だったり、投資、情操教育などさまざまな形に変形していったのです。 さて、そのダビンチに象徴される「多彩な能力」を身につけるための講義には、私がフランスで学んだ一九八〇年代でも、既に油絵や彫刻といった技法別のジャンルは存在せず、アート表現のほかに建築学や社会経済学、象徴学、記号学、心理学、哲学、弁論法の授業などが必修だったのです。そして現在は、さらに数学や物理学をベースにプログラミングや3Dといわれるコンピューターを使った授業までが必修であることを聞いたとき、日本の多くのアート関係者はあぜんとするのです。 以前、このオピニオン(二月四日付)で書かせていただいたように、アートは産業であり、現在もアートを学ぶ学生たちが、二十年、三十年後、アートの舞台で世界の主流となり得るように、そしてアート産業の中心であり続けるためにその教育が行われているのです。 日本でも一部でその役割に気がつき始めた今、社会におけるアートやそれにかかわる人々の役割を、社会全体でもう一度見直す時期にある気がします。 (上毛新聞 2007年5月12日掲載) |