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社会福祉法人アルカディア理事長 中田  駿(太田市高林寿町)

【略歴】 早稲田大卒。太田市の三枚橋病院(精神科)勤務を経て精神障害者の地域ケアに従事。県精神障害者社会復帰協議会長、NPO法人「糧」理事長。岡山市出身。

カタカナ言葉

◎日本語の感性が風化

 最近、「カタカナ言葉」(カタカナで表現される外来語のこと)が目立つ。テレビ、雑誌、看板など、いたるところに氾濫(はんらん)している。グローバリゼーション、コンテンツ、ホワイトカラー・エグゼンプション、アイデンティティー、ニート、ベンチャーなど。私はこの種の言葉が多用される傾向は、以下のような理由で好ましくないと思っている。

 まず、その意味がわからないという単純な理由である。本来、言葉や文字は、伝わなければ意味がない。「覚えないと(日々変わっていく)社会の動きについていけない」という思いもある。しかし、覚えようと努力するのだが、新しいカタカナ言葉が登場する速度に追いついていけない。日常用語として使わないため、学習意欲がわいてこないのである。

 さらにカタカナ言葉は、「略語化」されていく。コラボレーションがコラボ、ドメスティック・バイオレンスがDV、キャパシティーがキャパという具合に。堂々とテレビから日常会話のごとく流れてくる。お手上げ状態である。伝えることを軽視した一方通行状況になっている。やさしく、やかりやすい言葉を使うことの大切さをいま一度、再認識したいものだ。

 次に言葉の意味が曖昧(あいまい)にされたまま使われることである。福祉の領域で「ノーマライゼーション」という言葉がある。「障害者が地域社会で普通に生活する」という意味である。

 しかし、このノーマライゼーションの大切な意味は、障害者が生活する権利を主張し、積極的に福祉施策などに参画していくことにある。この重要な内容が抜け落ちている。

 このように、ノーマライゼーションの持つ核心的な意味を共有しないまま、語る時、言葉が独り歩き(形骸=けいがい=化)するようになる。当然の結果として、日本では当事者不在のまま、障害者の福祉施策を議論・決定することが多々ある。残念なことである。

 最後に、ふれておきたい。カタカナ言葉の乱用は、日本語の持つ感性豊かな表現力を風化させてしまうことにならないか? 私たちの日常生活で使う日本語は、四季折々の季節感・生活感と伝統にはぐくまれてきた、他国にはない豊かさをもっている。

 カタカナ言葉の使用根拠のひとつに、「適切な日本語訳がない」ことが挙げられる。しかし、日本語に訳せない言葉を「持ち込む・使用する」こと自体に無理があるのではないだろうか? その適切性を問い直す時期にさしかかっているのではないだろうか?

 私はできるだけ手書きの手紙を書くように心がけているが、パソコンで手紙を書くことが主流となった現在、「手紙をしたためる」という表現や行為は、失われつつある。言葉は「(意味を)伝える」という役割と同時に、人柄が伝わってくる「生活行為」であることを忘れないようにしたいものだ。日本語のもつ情緒豊かな表現力を継承していきたい。同時に、マス・メディアの役割にも期待したい。






(上毛新聞 2007年4月29日掲載)