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元群馬大教授 梅澤 重昭(前橋市広瀬町)

【略歴】 太田市出身。明治大大学院日本文学研究科考古学専攻修了。県立歴史博物館副館長、県教委文化財保護課長など歴任。1991年から2000年まで群馬大教授。

遺跡から見えるもの(3)

◎“毛野国”の初期政権

 “クルマ”という地名が井野川流域を中心とする榛名山南面地域に定着する以前、群馬県南部の平野地域は、大和政権の列島支配が進むなか、外来系の人々、その主力は東海西部の伊勢湾周縁の地域からの入植者たちによる村の建設に沸いた時代があった。四世紀から五世紀初頭の、すなわち、古墳時代前期のことである。

 この時代のほぼ百年の間に、ほとんど無住の広野であった県南の平野地帯は、東国最大の地域政権の拠よって立つ地へと発展したのである。旧事紀(くじき)・国造本紀(こくぞうほんぎ)を除けば、史書には“毛野国”の存在を伝える記載はないが、実態はまさにその国の形成の礎となる地域の開発が進展した時代で、群馬県域の歴史上、最大の画期をなした時代といってよいであろう。

 この時代に地域開発の主役となった人々が遺(のこ)した遺跡から見る限り、東は栃木県西南部の地域から西は前橋南部、高崎東方の利根川水系の河川流域の沖積平野が、その舞台であり、とりわけ、水運に恵まれた渡良瀬川や利根川本流、烏川の下流域が大和政権の東国経営の拠点地域となっていった。

 東毛地域に藤本観音山古墳(現在は足利市域)、前橋南部地域には前橋八幡山古墳、高崎東部地域には元島名将軍塚古墳など、百メートルを超える規模の前方後方墳が造られた。前橋八幡山古墳のごとくは百三十メートルもあり、前方後方墳としては畿内地域を除けば全国最大の規模を誇る。

 県南の平野地域は、これら古墳が出現した三つの地域を中心に、その古墳に葬られた首長が主導するクニづくりが進み、やがては勢力を競うようになった。それぞれの首長が政治的に連衡して、県南の平野地域に首長連合政権を成立させたのである。史上に“毛野国”が存在したと、それを肯定するなら、それは県南平野地域でダイナミックに進展した開拓事業の後に生まれた、この“地域首長連合政権”を呼ぶのがふさわしい。

 ところが、県南平野地域に出現した前方後方墳は、初代の首長を継いだ次代首長には採用されることはなく、前方後円墳の造営に変わるが、その嚆矢(こうし)となったのは前橋南部では前橋天神山古墳、東毛では矢場薬師塚古墳、太田八幡山古墳などであった。詳しく述べる紙面はないが、前橋天神山古墳の大きさは百二十九メートルと前橋八幡山古墳とほとんど差はない。しかし、墳丘形態は、初期大和政権が拠った地にある祟神天皇陵と相似形(二分の一強大)である。

 亡骸(なきがら)を納めた棺も粘土槨(かく)で保護された巨大なものであり、副葬品も銅鏡五面、大量の鉄製武器類、農工具類など、他の東国の初期古墳には見られない内容である。首長権威を象徴する古墳の造営に大和政権の政治行動がダイレクトに及んだことは間違いない。

 このことをどう見るか。私は、三世紀の倭国大乱の後、圧迫された東海西部の人々の求めた新天地が県南の未開の平野地域であり、その地の開発が進み、各地に地域形成=クニづくり=が進んだ段階で大和政権の東国経営が毛野の地で本格化したのだと見たい。






(上毛新聞 2007年3月30日掲載)