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◎仮の力にすぎない権力 「権力」というのはどういうものでしょうか。 一般に権力というときは、法的な裏づけのない「事実上の影響力」も権力といわれることがありますが、今回は、事実上の影響力は除いて話を進めます。 さて、権力というのは、どういうふうにつくられるかというと、有権者が、政治家を選んで議会を構成し、その議会で、法律なり条例なりが制定され、さらに法律から委任された命令なりで具体化されていきます。権力は、そういう法的な裏づけがあることが、他の事実上の影響力とは違います。 ところで、なぜ力ということばに「権」がついているのでしょうか?英語では同じ「power」でも、「balance of power」を勢力均衡と訳しても、権力均衡などとは訳しません。「power station」は、一般には発電所です。いくつものカテゴリーキラーと称されるお店が集合する、日本で言うところのショッピングセンターを、当初米国流に「パワーセンター」などと読んでいたことがありますが、定着しませんでした。しかし、この場合も「権力センター」とは言いませんね。 繰り返しますが、有権者が選んだ政治家によって構成された議会で、広く「法」という形で与えられたものが「権力」です。法には、趣旨目的がありますから、法に基づく権力の行使にも当然、法の趣旨目的からの制限があり、権力行使の自由裁量というのはあり得ません。「権」とは何でしょうか? ここで「権」を考えるうえで、よくご存じの話をしましょう。東照大権現といえば日光東照宮で有名ですが、「権現(ごんげん)」とは「かりにあらわれる」ことを意味し、仏様が神様として姿を変えて仮に現れたことを言います。「権力」も、考えてみれば「法」によって与えられているわけで、その法をつくる根源的な力はどこにあるかというと、議会制民主主義の下では、議会で法をつくる人(議員)を選出した有権者であります。だから、「仮の」力なのですね。 そして民主主義の語源は、ギリシャ語の「デモクラチア」つまり、民衆の力という意味ですが、為政者(治者)が民衆(被治者)に向かって振るう力は、いつの時代でもおそらくは「仮の」もので、根源は、時代によって、神に由来したり、国家に由来したりしたのでしょう。そして、今は民主主義の時代ですから、権力の源泉は、民衆にあるわけです。だから、為政者の力は「仮の」力で「権力」というわけです。その有権者の意思が、例えば、知事選挙であれば、次の四年間に限り、「仮に」力を預けるよ、ということです。これが約束違反を犯せば、地方自治法では住民による罷免の請求となり、国であれば、英国の政治思想家ジョン・ロックなどの社会契約論に従えば、その政府は、国民との約束を無視して信託された政治を私物化しようとしたとのことで、「抵抗権」(わが憲法でも一一条にその精神があらわれています)によって、国民は政府から権力を取り戻すことが正当化されます。 (上毛新聞 2007年3月24日掲載) |