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◎江戸時代から一般化 間もなく春の彼岸がやってくる。墓参時に日だまりで、いっとき話題になるのが墓石に刻まれた先祖への思いである。 墓石建立の文献上の記述は、平安時代の天禄三(九七二)年に没した、天台宗十八代の座主(ざす)慈恵の遺言を記した「慈恵大僧正御遺告」が古い。 この中で墓石(卒塔婆(そとば))について、「埋葬後は仮卒塔婆を建て、四十九日までの間に石卒塔婆に建て替えること」、建立の理由は「弟子たちが時々墓参に見えたときの標示のため」と遺言している。墓石の役割は、千年以上を経た今日でもあまり変わらない。 墓石は、国内ではこのように古代の高僧から建立が始まった。 続く中世は、家の基本が複合大家族的な集団で、信仰はこれを統括する家父長のもとにあった。このため、一族の先祖供養や安寧、極楽往生などを願う供養塔の建立に力が注がれ、個人が墓石を建てることは少なかった。 江戸時代には、現在の家庭に近い単婚小家族的な制度に次第に移行し、幕府の諸政策もこの家族制度を基本とした。宗教政策や儒教の先祖供養のおしえは次第に庶民層にも浸透し、個人が墓石を建てることが一般化した。 関東地方の江戸時代の墓石建立は、文治政治の始まる「大坂の陣」後の、元和年間(一六一五―二三年)以降顕著になり始めた。その後、檀家制度の成立に人口増加も加わり寛文年間(一六六一―七二年)には急増に転じ、天和〜元禄年間(一六八一―一七〇三年)にはピークに達している。庶民にはこの時期に広く普及したが、同時に小型・定型化した墓石等、経済的負担感がにじみ出たものも多い。墓石建立数はこれ以降頭打ちとなるが、天明年間(一七八一―八八年)からは減少に転じ、地域石材や軟質石材、大量生産の痕跡、複数名の戒名など、経済性を強く意識した墓石の比率が高まり幕末まで続いている。 このように、国内では江戸時代になり墓石の建立が一般化したことから、本家・分家の古い墓地で、墓石がきちんと残されている場合には、理論上、寛文年間ごろまでその系譜をたどることができる。しかし、現実的にはこれらの墓石は土葬の時代や近年の墓地大改修により次第に整理されていて、系譜をたどることはなかなか困難である。 私は、仕事がら古い墓地によく出向くが、墓地の片隅に銘石の無縁墓石が多数まとめられているのを時々見かけることがある。 墓石の建立が始まると、石の永久性に託してより耐久性に優れた見栄えのする高価な墓石を建てる人たちが増加した。しかし、このような多数の無縁の墓石を見るにつけ、墓石や墓地の永続性は、それを支える一族や家族のまとまり、信仰、経済力などを背景とした、人間側の持続性の問題と大きくかかわっていることを実感させられる。 (上毛新聞 2007年3月8日掲載) |