視点 オピニオン21
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少年哲学堂主宰 須藤 澄夫(片品村鎌田)

【略歴】 朗読劇団片品モナリ座主宰、平成草木塔をすすめる会代表。飯能市助役などを経て片品村教育長。著書「少年の夕方」「抒情的生涯学習論」「尾瀬はぼくらの自然塾」など。

教育

◎自前で育てなくなった

 日本人は人を自前で育てなくなった。派遣社員、アウトソーシング(外注)、即戦力などの言葉がそれを物語っている。

 そうなるには理由がある。終身雇用制が崩れた。育てても中途で辞められればコスト・パフォーマンスが低くなる。そうなれば派遣社員の導入やアウトソーシングの発想は無理もない。

 だが人を育てるということを薄っぺらにしておくと、忘れたころに分厚い寂しさが天から降ってくることになる。大げさにいえば日本のアイデンティティーが雲散霧消するような気がする。

 しかし、人を自前で育てなくなったのは社会の種々の組織より家庭の方が早い。家庭教育の低下が言われて久しいことで了解されるだろう。

 子供を野球やサッカーのクラブに入れる。ピアノや習字の塾に行かせる。何で行かせるか。スポーツや習い事の楽しみを覚えさせるためだけではない。スポーツクラブの監督や習い事の先生にしつけてもらえるからとの意識もある。それは悪いことではない。

 問題はその手順である。監督や先生にこう頭を下げなさい。こういう言葉を用いなさい。そういう基本的なしつけをしておいて、うちの子供はちゃんとできているでしょうかと教えを請うのはよいことである。人間お互いさまだ。人の道は、家庭で芽を出し、学校の教えで花が咲き、世間の教えで実がなる、と古人は言う。

 だが何もしつけて出さないで、ぜんぶ監督や先生から教えてもらおうというのは、子育てのアウトソーシングの度が過ぎると言えないだろうか。

 人育て(人材育成などと、人を木材や鉄材の親戚(しんせき)のようにはできるだけ言いたくない)の大事は口伝である。

 知識技術は卓越した外部講師でも伝授できる。だがその集団がもつ風土や心意気などは内部の人でなければ伝えられない。じつは人育てで手を抜いてならないのはその部分なのである。

 だから家庭では親が子に、企業では先輩が後輩に、学校では先生が後生に、手ずから伝授、つまり口伝することが肝要である。そのなかで立派な伝授者は後生畏(おそ)るべし(論語)と悟るものである。

 口伝の達者は世阿弥(ぜあみ)である。彼は名著『花鏡(かきょう)』で人口に膾炙(かいしゃ)している「初心忘れるべからず」について述べている。初心には三つある。是非の初心、時時(じじ)初心、老後の初心。是非のとは年若い時の至らなさ、時時のとは年盛りを中心にした折々の気づき、老後のとはいつになっても研鑽(けんさん)あるのみと知ること、このような初心を忘れるなと言っている。蛮勇(ばんゆう)をもってそれを一言にすれば、人間常に謙虚であれということだろう。謙虚でなくなったとき人間は年寄りになる。謙虚とはソクラテス(汝(なんじ)自身を知れ)になることである。次代を担う人物を育て辞する時を知る。これ以上の人育てはない。さすればプラトンやアリストテレスは育つ。






(上毛新聞 2007年3月5日掲載)