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◎書の持つ貴重な精神性 かつて中学生から聞いたことがあります。「習字の“墨”は、硯(すずり)が減るんだよね」。そういえば硯は黒かった。時間の節約か、最近は墨をすったりせず墨汁を使うそうです。墨のことも、硯のことも、筆の扱いも、きちんと教わっているとは思えないと感じた出来事でした。 墨は中国が発祥の地。製法としても美術的にも、清の乾隆帝(けんりゅうてい)の時代に最高峰に達したといわれています。墨は膠(にかわ)と煤(すす)を練って木型に入れて成型し、乾燥して作られますが、その木型による墨の彫刻を見たことがあるでしょうか。乾隆御墨(ぎょぼく)の構図もそうですが、その彫りがなんとも素晴らしいものなのです。例えば一ミリに二本もの細さに彫られた龍のひげの、澱(よど)みなく流れる線のどこにも刃物の跡が見当たりません。いつまで見ていても飽きないその精緻(せいち)な技術。とても人間の技とは思えない一級の美術品に仕上がっています。 当時の素晴らしい技術を垣間見ることのできる墨が運良くわが家にもあり、大切にしています。墨の色にも一つ一つに個性があり、ケチケチ、できるだけ使わないようにしていますが、その墨色でなければならないときがあり、少しずつわが家の宝は小さくなっていきます。 先ごろの群馬県教育委員会の調査で、公立中学校百七十六校中七十校で毛筆の書写を省略していたと新聞記事にありました。 高校ではほとんど受験のための授業体制と聞いておりますが、すでに中学校からしてそうなんですね。受験のための授業。何かを削らなければならないのは分かりますが、日本の大切な文化を軽んずる行為と思います。それにしても受験受験と、一つの価値観ばかりに全員の生徒を向かわせるなんて成熟した社会の教育とは思えません。まして歴史ある日本の、いわば日本たるゆえんのような文化まで義務教育からなくしてしまおうとは情けない。 『書』を学ぶ人が少なくなれば付随して紙も墨も、作る技術も衰退してしまいます。先ほどの墨の彫刻のような神業は、勉強ばかりしていては会得できません。三歳でゴルフやピアノもいいですが、日本の伝統的な職人技に向かう選択肢も考えられないものでしょうか。もっとも最高学府の東京芸術大でさえ、書道科はない状況ですから、あまり期待はできませんが…。 アメリカの合理主義やら経済主義やらに毒され、マスコミはお金をたくさん儲(もう)けた人などをもてはやす。見つからなければ何をしてもと浅はかな価値観に支配され、運悪く見つかっても、大の大人のどいつもこいつも恥を知らず、しらを切るのがご定法。 そんな世相に、善良にして自信を無くしたママやパパは概念でしか子供の価値を捉(とら)えられず、試験の結果からしか子供の価値をはかれなくなりました。 何か大切なものが抜け落ちている現代。長い歴史ある『書』も次第に社会の裏方に追いやられていきます。書の美しさや、書の持つ高い精神性など、あわただしき拝金主義者の目にはとまらないようです。 (上毛新聞 2007年2月22日掲載) |