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元群馬大教授 梅澤 重昭さん(前橋市広瀬町)

【略歴】 太田市出身。明治大大学院日本文学研究科考古学専攻修了。県立歴史博物館副館長、県教委文化財保護課長など歴任。1991年から2000年まで群馬大教授。

遺跡から見えるもの(2)

◎クルマ以前はヰノでは

 あらためて述べるまでもないと思うが、群馬県の県名は上野国の大郡・群馬郡の郡名を採用したものだが、その群馬は車(くるま)から変じたもの。律令国家形成期にあって、群馬県域は上毛野(かみつけの)国となり、その国を構成する郡に車評(くるまごおり)が存在した。それが大宝令の国郡名は好字二字で表すという改令で、国名は上野、郡名は群馬に改称されたのである。

 郡名を「車」から「群馬」に変えたところなど、六世紀以来、運輸・軍事に重要度を増していた馬を意識して地名の改正にあたった、なかなかの知恵者が国府の役人にいたことをうかがわせもする。だが、上野三碑の存在や、奈良時代の集落遺跡から村人の名前を記した文字資料が見つかっているのを見れば、むべなるかなの思いはする。文字(漢字)の使用は、われわれが思っていた以上に、村の家族の間にも広まっていたのであり、文字を媒体とする“情報社会”になっていたと見るべきであろう。

 雄略天皇の御世に車持君(くるまもちのきみ)の姓を賜ったという上毛野氏系の車持氏が管掌した職能集団は、交通・運輸にかかわる中国大陸・朝鮮半島地域の文化情報にたけた渡来系の氏族であり、彼らの進出が上毛野国の地域発展につながったことは間違いない。彼らの進出した地域は、まさにテクノポリスを形成したのであり、その産業の基幹に馬の飼育があったことも間違いない。

 その地がおのずから<クルマ>と定まっていったのである。そして、律令時代になり、その地一帯は「車評」となり、「群馬郡」と改められ、郡名として地名は残ったのである。群馬県の県名の由来を知る上で欠かせないエポックメーキングな事柄である。

 以上のようなわけで、<クルマ>という地名は新興の地名であり、とすると<クルマ>に替わる以前の、忘れられてしまった旧地名があったのも間違いない。とにかくも、群馬郡の主要域を占める榛名山南面地域は、弥生時代後期から終末期にあっては日高遺跡や新保田中遺跡があるように、北関東地域では最も発展を見た地域であり、樽(たる)式土器文化を母体とする農耕社会が広まり、利害を共有する村落が形成する「クニ」が成立していたのである。そして、そこに住む人たちが、彼らが住む地の東方に開ける県南の平野地域を<ケノ>と呼んでいたことも、当時<ケノ>の地がほとんど無住の広野であったことから見て間違いない。<ケノ>という地名は、<クルマ>以前の人々が呼んでいた県南平野地域の地名であった。とすると、クルマ以前の、その地は何といっていたのだろうか。気になるところである。

 私は<ヰノ>ではなかったかと、<ケノ>に対応する、その地の地勢から見て、推定したい。魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に邪馬台国の東方は僻遠(へきえん)にして国名詳(つまび)らかでないと記されているが、その詳らかでない「クニ」のなかに<ヰノ>国は含まれていたのではないかと思う。

 現在は、井野川という河川名にその名残をしのばせるのみであるが、その河川名とともに、井野川地域のはぐくんだ史的景観は、ふるさと群馬を考える上で多くの示唆を有している。






(上毛新聞 2007年2月18日掲載)