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◎若い人たちに伝えたい K君へ。 お元気ですか。昨年の暮れ、母が逝きました。数え九十歳でした。年に不足はないのですが、私を無条件に支えていてくれた親が立ち去ってしまったことの喪失感は大きいものがあります。 母は大正六年に群馬で生まれ、成人した後、上京し、石屋職人の父と結婚しました。昭和十九年に父は召集されて戦地に赴き、やがて母は空襲が激しくなった東京を離れ、長女を連れて故郷に戻りました。戦後、無事帰還した父は石材店を開業し、母は小さい体ながら、懸命に父の仕事を手助けし、家事をこなし、私たち三人の子を育てました。生活は豊かではありませんでしたが、家族の強い絆きずなで結ばれた幸せな暮らしでありました。 今から思えば、母の世代は自分たちに与えられた厳しい試練を愚痴もこぼさず受け止め、日々の暮らしを大事にして一歩一歩あゆんでいました。私たちは我慢強く働く親たちの「せなか」に教えられ、育てられた気がします。そして、その親たちの姿が私たちの生きる力の源になってきたように思うのです。 母は晩年、数度の大病やけがに見舞われましたが、周囲を驚かす努力でそれらを克服した後、やや不自由になった体をかばいながら趣味の小物作りを始めました。貝殻の表面にさまざまな模様の端切れを張った根付けや、着物姿の小さなキューピー人形…。それらは人に贈ると大変喜ばれ、やがてそのことが母の生きる張り合いになっていきました。母にとり、小物作りは自己の表現であり、他者とのコミュニケーションの窓口でもありました。自分の作品が評価され、周りの人たちがさまざまに反応してくれることで、内側からエネルギーがわき出ていたようでした。 「おばあちゃんのような女性になりたい」「おばあちゃんのようにいつも笑顔で、ものを大切にし、何かを生み出せるように生きていきたい」。告別式で孫たちが述べたメッセージです。聞きながらうれしく、そしてちょっぴりうらやましくも感じました。 ところで、私たち団塊の世代はこれまでに何を伝えてきたのでしょうか。「団塊、いまだ何も創造せず」という声も聞こえてきます。この世代が今後どうなるかによって、日本社会の在り方が変わるともいわれています。 思い返せば、私たちはいつも世の中から注目され続けてきました。これから、かけがえのない「もう一つの人生」が始まろうとしています。どのようにすれば、住みやすい社会をつくることができるのか。気が付けば私たちは今、地域社会での教育、環境、文化などの活動に最も深くかかわれる立場にあり、地域の主人公なのかもしれません。これまでに培った豊富な人生経験を生かしながら、自分流に、できることで、積極的にかかわっていこうではありませんか。そして、いつまでも夢を抱きながら、前に向かって歩んでいく創造的世代。そんな私たちの「せなか」を、次代に生きる若い人たちに伝えていきたい、と思うのです。 「今が一番いいとき、人生の旬の時だ」と言っていたK君。春近し、ですね。今度ゆっくり会って語り合いましょう。ではまた。 (上毛新聞 2007年2月10日掲載) |