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◎語り継ぎたい群馬の宝 旧新町(現高崎市)には新町紡績所(カネボウ新町工場)があります。私の生まれたころには家の周りは桑畑で、農家では皆、蚕を飼っていました。農家の人たちは御蚕様(おこさま)と呼び、自分たちのご飯に先んじて桑畑に行って桑を摘んで与え、室内の温度管理にも気を配っていました。蚕は生き物でしたから…。 時々、蚕の部屋に入れてもらい、サワサワと桑を食べる様子、ひんやりとした肌触り、繭を作り出すときの変化の様子などを見せてもらいました。一斉に桑を食(は)む光景は壮観でした。しかし、こんな身近な周りの農家から良質の繭が供給されていたことなど、当時は全く知りませんでした。 私たちの世代は、それより以前も含めて新町紡績所を見ながらというより、共に育ったという感じです。広大な敷地、繭の形に刈り込まれた生け垣、プール、病院、社宅とそこに住む多くの友人、引き込み線、れんが倉庫、遠くからも見える大きな煙突、そして正午を知らせるサイレンの音は町中に聞こえました。もっと上の世代は学校にまだプールがなかったので、カネボウのプールで水泳の授業を受けたそうです。 また、野球の応援にバスで東京まで連れていってもらい(そのころ毎年、都市対抗社会人野球の代表で後楽園、神宮球場に出場していたようです)、野球というスポーツに目覚めた人もいたと聞きました。一流の芸能人による演奏会などもあったようです。多くの人々が新町紡績所にかかわり、新町にもかかわり、新町住民と一体となって今日まできました。 建造物や歴史的なことでびっくりさせられたことは、英学校、そして明治天皇や明治政府の大臣がここを訪れていたということでした。英学校は今は取り壊されてしまいましたが、病院として使われていました。明治の洋館造りの建物で、建設当時は働く人たちの教育の場であり、産業を興すにあたり教育の場をつくり、百年の計をもって当たったという慧眼(けいがん)にただただ敬服します。時を経てカネボウに就職した同級生も皆、学んでおりました。 明治十年、ウィーン博覧会から帰国した大工、山添喜三郎によって建てられた新町紡績所は、石川徳太郎が描いた錦絵の建物のほとんどが現存し、さらに同三十年、四十年の建物も残っております。ロマネスク様式ロンバルジア帯の装飾が施されたれんが倉庫、のこぎり屋根、シルクハウスなど、さまざまな明治の産物が息をひそめてたたずんでいます。 群馬の良質な“絹の生産物”が外貨を獲得し、国の経済力、国の土台をつくる源となりました。近代化の礎を担った物作りの現場がこの地にあったのです。そして、それが日本を代表する製造業だったのです。何としても残して、後世に語り継いでいきたいという切実な思いです。「よみがえれ! 新町紡績所の会」を中心に保存運動を続けていますが、今私たちが残さなくては、後々の人たちから恨まれます。新町紡績所は新町の、群馬の、日本の財産だからです。 (上毛新聞 2007年2月7日掲載) |