視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
獣医師 長田 克比古さん(桐生市仲町)

【略歴】 大分県別府市生まれ。帯広畜産大獣医学修士課程を経て、桐生市仲町に1990年、動物病院を開業。強撚糸(ねんし)を生産する「八丁ヤーン」を昨年立ち上げた。

世界の各地で

◎輝き見せる若者たち

 ピシッ、ピシッと交互に黒石と白石が打たれていく。熊本県出身のO君は日本青年海外協力隊員である。二十歳で志願した彼の専門は竹工芸。端正な顔立ちの美青年で同期の中で最も若い隊員だった。ここフィリピンのマニラにある協力隊の事務所兼駐在員宿舎は、地方に赴任した隊員がマニラに来たときのくつろぎの場所でもある。駐在員夫人の手になる日本食が心の支えになる。事務所の一角にある談話室の片隅で、新聞の対局譜をのぞき込みながら、ひとり碁を打つO君の姿はかれこれ三時間に及ぶ。

 彼はフィリピン滞在が一年近くになり、満足な医療施設のない赴任先のまちから健康診断にやって来たのは三日前。翌日から大降りになった雨はやまず、昨日からマニラ一帯は深く浸水して車の通行は不能、郊外にある国際空港も閉鎖されてしまった。真一文字に結んだ紅の唇、長いまつげに真っ黒な大きな瞳。ピシッ、ピシッと交互に打ち続ける彼の横顔は、綺麗(きれい)というのか妖艶(ようえん)というのか…。

 三時間前、東京の事務局からの電話を取ったT駐在員が、居合わせたO君をそっと呼んで伝えた。「お父さんが危篤だそうだ」「…!」。O君は短い沈黙の後、独り言を吐くかのようにつぶやいた。「飛行機は? 空港が閉鎖中だ。パスポートは? (赴任先の)下宿の部屋にある。赴任地までの交通手段は? 道は寸断しているだろう。間に合わない」。そして、T駐在員に言った。「帰りません!」。駐在員の机を離れた彼は碁盤に向かった。

 夕方遅くに雨がやみ、事務所にいたすべての隊員は、ジャブジャブ歩いてホテルに向かった。

 私が「大変だったな」と声を掛けると、O君の大きな丸い目から見る間に涙があふれ出した。「悲しい…。悔しい…。本当に…本当に悔しいんや。おやじを超えようと思ってたんや。でも…もういない」。ボロボロこぼれる涙を拭(ぬぐ)いもせずに、ベッドのマットをたたきながら彼は訴え続けた。その彼の姿に、今朝見たひとり碁を打つ彼の姿が重なる。悲しみと悔しさに耐える若者の震えるような心の葛藤(かっとう)。父親を亡したとき、若者はこうも強くなるものか…と。

 所変わって、ここはブラジルのアラシャ。

 「オー、メウ デウス(ああ、神様)…」。試合終了のホイッスルが鳴り響くと、嘆きのため息が牧場一帯に広がっていった。大型トラクターにつながれた発電機からランプ生活の宿舎に引かれた14インチのテレビには、FIFAワールドカップ・スペイン大会が映し出されていた。

 カルテット・デ・オウロ(黄金の四人組)を擁するブラジルは、優勝候補の筆頭だった。しかし、イタリアのパブリートの奇跡のハットトリックで二対三で敗退。激闘のこの一戦は、後に伝説の試合の一つに数えられることになるのだが、黄金の四人のうち三人までもが日本のサッカー界にかかわることになることを、誰一人知る由もなかった。一九八二年七月五日。ジーコ二十九歳、ファルカン二十八歳、トニーニョ二十七歳、ソクラテス二十八歳。

 若者はいつの時代も、それぞれの分野でプロを目指し、プロであり続けたいと輝きを見せている。






(上毛新聞 2007年2月5日掲載)