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◎見据えたい戦争の悲劇 クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』が話題を呼んでいる。硫黄島は太平洋戦争末期に日米両軍の激しい攻防戦の末、日本軍が玉砕した島だ。本土防衛の捨て石となったこの島を通じて、戦争という地獄をしっかり見据えておくことは、悲劇を再び繰り返さないために必要なことではないだろうか。 一九四五年二月十九日、島を変形させるほどの激しい攻撃の後、米軍は上陸した。戦力の劣る日本軍は地下壕(ごう)を掘って、持久戦で対抗した。 しかし、この壕掘りが過酷であり、戦う前に兵士の体力を奪った。森山康平著『秘話でよむ太平洋戦争2』などによると「掘れば掘るほど硫黄の蒸気がブスブスと噴き出してきて、その蒸気のため壕に入って一回の作業は八―十分、蒸気の激しい所は三分が限度だった」「地下壕は蒸気が充満しており、硫黄のくさみが鼻をつくばかりか、極めて簡単な食事も、その排はい泄せつも同じ所でしなければならない。その上極度の水不足であった」という。この状況下で十八キロにもおよぶ地下壕を手作業で掘った。 島には一切の河川もわき水もなく、貯水した雨水とろ過した海水を飲みながら二万人の兵士が飢えをしのいだ。圧倒的戦力で上陸した米軍も地下壕からの抵抗で、わずか五十一時間の戦闘で六百余人の戦死者を出し、両軍共に凄惨(せいさん)な戦いとなった。 武器、弾薬の乏しい日本軍は最後の一兵まで戦うことを義務付け、それを毎日唱和、暗唱させてその厳守を強いた。その中の一つ「敢闘の誓い」は、森山康平著『玉砕の戦場』によると次のようなものだった。 一、われらは爆弾を抱いて敵の戦車にぶつかり粉砕する 二、身を投げ出して敵中に斬きり込み敵をみな殺しにする 三、一発必中の射撃によって敵を撃ちたおす 四、各自敵を十人たおさなければ死ぬな 五、最後の一兵となってもゲリラになって敵を悩ませ 戦いは末期になるほど凄惨になった。生き残った兵士の証言によれば「三人の死体の下に入って身を隠し、泥水やウジを口に入れてしのぐ日が続いた。負傷しても捕虜になるな、苦しさに負けて自決するなと命令された。投降すれば後ろから味方に撃たれた。戸籍に赤罰点が付けられるとも教えられた」(NHKテレビ番組から)。兵士にとって逃げ場のない戦場になった。そして、三十六日間の戦闘で日本軍は約二万九百人の守備兵力のうち約二万百人が戦死した。だが、前述の『玉砕の戦場』によれば、二万余の戦死者のうち純粋の戦死は三割、注射処理も含めた自決六割、残り一割は他殺だったという。 この悲惨な戦いが終わって六十一年の歳月が流れた。戦争の記憶は残りつつも、その一方で平和に慣れ切ってしまった頭の中で「戦争は過去のこと」と、線を引いてしまってはいないか。憲法、靖国問題、自衛隊法等々、日本が平和であり続けるために克服しなければならない課題は多い。戦争は過去ではない。二度と同じ過ちを繰り返さないために、いま私たちに何ができるか考えなければならない。 硫黄島には、いまも一万余の遺骨が眠っている。 (上毛新聞 2007年1月26日掲載) |