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◎クルマは県名のルーツ <クルマ>と言っても、われわれが日常欠かせない足としている車のことではない。雄略天皇に乗輿(じょうよ)(天子の乗り物)を供進したことから、車持君(くるまもちのきみ)の姓を賜ったと、新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)に伝えられる古代氏族の氏姓にかかわる地名で、それは後に変じて<グンマ>となった地名のことである。外装、内装に贅(ぜい)を凝らしたとびっきり高級な乗り物を製造し、天皇に供進したというのだから、その姓を賜った車持君とは当時にあっては抜きんでた工芸技術を持ち、交通・運輸の職能に携わる渡来系の<クルマ>と呼ばれた人々と、その住む地を支配した氏族であったと思われる。 日本書紀・履中紀(りちゅうき)は、車持君は筑紫国の車持部(くるまもちべ)をことごとく取り調べて、宗像(むなかた)(胸形)三神に与えられていた神戸(かんべ)(神社に所属した民)を奪ってしまったので、それがたたって皇后が崩御されたという批判が立ち、その罪により筑紫国の車持部を管掌することを禁じられたと伝えている。 皇后の崩御につながる専横をなしたのだから、大和朝廷内で地位を失墜したことは間違いないであろう。雄略天皇の御み代よになって、車持君の姓を賜ったということは、朝鮮半島地域との交流の上で地の利を占める筑紫国での専横が大和朝廷の外交舞台からの発言力の低下につながるものとなったが、支配を広めていたほかの地で、渡来系の職能集団を管掌する氏族としての性格を強め、大和朝廷内において復権したことを意味するものだったのであろう。 その車持君は、上毛野(かみつけの)氏と先祖が同じだという。応神紀には、上毛野君の祖、荒田別(あらたわけ)・かんな巫別(ぎわけ)を百済(くだら)に遣わして、王仁(わに)を招いたとあり、上毛野氏と渡来系氏族との関係は、深いものがあったことが推察される。新撰姓氏録の車持君は、上毛野地域にあって勢力を回復し、祟神天皇に系譜がたどれる名族、上毛野氏に入った渡来系の擬制氏族だったのであろう。 その渡来系氏族が扶植した地域は<クルマ>と称されるようになったが、その地は榛名山南面の井野川流域を中心とする地域、すなわち、後の群馬郡域であったと推定される。その地に設置されていた渡来系の車持部を管掌し、上毛野国の成立へと地域形成を進めて、大和朝廷の東国経営に大きく寄与したことが車持君の賜姓につながる功績だったのである。 このことを伝えるかのように、旧群馬郡域には、胸形明神、車持若わか御み子こ明神、車持大明神などの神社の存在を上野国神名帳は記載している。また、五世紀後半になり、前方後円墳の築造が規制されるなか、この地域のみ、大前方後円墳の保渡田古墳群や豪族居館の三ツ寺遺跡等が出現する。半島地域からの直輸入品・韓式土器や優れた金工芸品の出土も多い。 近年、県内でも史跡整備が進んでいる。その一つ「上毛野はにわの里公園」にある復元された保渡田古墳群の八幡山古墳から望める榛名山南面の田園風景はすばらしい。後の群馬県の県名につながった<クルマ>の人々が培った地域の歴史、風土が目に見える風景の向こうに心象として映るからだと思う。郷土を愛する心をはぐくむ場所だと思う。 (上毛新聞 2007年1月12日掲載) |