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◎地道な運動で後世に 登山者は、なぜ山に登るのだろう。「そこに山があるから」という英国の登山家、ジョージ・マロリーの言葉は有名だが、分かるようで分からない表現だ。人はなぜ生きるのか? と問われて「生まれけり、死ぬるときまで生くるなり」と答えるような禅問答的な趣すらある。明快でシンプルな答えはない。あえて言えるのは、「目的の山頂に困難を克服して立つ達成感」など、それぞれ自分流の楽しみ方があるのではないか。 山に登る多くの登山者は自然の中に自分の居場所と感動を求め、黙々と登る。私も幾度となく山頂を目指し、多くの山に登頂したが、ごみの山にはあぜんとする。 片品村戸倉の尾瀬ケ原山の鼻地区で四十年ほど前に捨てられた十トンに及ぶ大量のごみが見つかり、運搬されたという報道があった。尾瀬ボランティアや多くのハイカーの協力があった、とも聞く。なぜ、大量のごみが四十年も、と山小屋と登山者のモラルを疑う。弁解の余地もない醜い姿だ。ごみ持ち帰り運動の発祥の地にも、寝耳に水の出来事だったといえよう。自然という貴重な財産は、入山者のモラルで守ることができると確信する。 かつて、本県と福島県は生活、文化の交流が尾瀬を通して頻繁に行われていた経過が書物から伺える。母の遠縁にあたる古文史家、吉永哲郎先生は『峠』という著書の中で、「峠」を次のように表現している。 峠を越えるということは新しい天地を求める意味と、これまでとは違ったまったく新しい価値観の人々との生活が始まる、という意味がある。峠は独特の風景を持っている。誰も通らない峠は存在しない。物見遊山以外は峠の風景など眺める余裕はない。峠までたどりついてほっとする旅人は故郷までもう少しという安堵感、また別の旅人は追っ手を逃れたという安堵感もある。峠は人生の舞台である。 峠で思い出すことがある。旧倉渕村から長野原町北軽井沢へ向かう二度上峠。そこから浅間隠山の登山道整備に数人で行った際、山頂の火山灰土から金属物の一部が見えた。掘ってみると、出るわ出るわ。ごみ袋に空き缶などがいっぱいになった。こんなことでは、自然は枯れてしまう。自然との共存をどう考えているのか…。道徳心に欠けた一部のハイカーによって、良善なハイカーに迷惑がかからないよう、モラルの向上を求めたい。 「雪を見て雪山を思い、風の音を聞いて風の山を考える」。大自然を愛し、吾妻山岳会の会長を務めた金沢淳氏の言葉である。白砂山(六合村)の岩盤にレリーフがあるが、この言葉にはあらためて敬服している。現代社会に生きるわれわれは、あまりにも恵まれた環境の中に生を受け、思うがままに自然の恩恵を受けている。だが一部で、こうした恩恵を無視するように開発優先の施策が進み、中断による荒れ地が虫食い状態で残る林道を目にすることが多い。 今からでも遅くない。美しい自然を後世に残す使命が、われわれにはある。「地域から立ち上がろう 自然保護」をスローガンに、地道な運動を展開していきたい。 (上毛新聞 2007年1月9日掲載) |