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◎感性見失っていないか 長い間、画廊の仕事をしていると、作家やお客さまとの出会いから学ぶことが多い。情報過多とまで言われている現代社会にあっても、個人的なこととなると選択をする能力の低下と、多くの情報だけを当てにして大切な感性を見失いがちになる。最近の展覧会を歩いてみると、特に中高年の鑑賞者が増えた。テレビで特定の作家の紹介をすれば必ずといってよいほど土、日曜の展覧会の会場は作品を鑑賞する環境ではなくなり、人の頭と頭の間から作品を見ることになる。 「ゆとりの時間」が持てる人、「文化に関心」を持つ人が増え、それ自体はよいことかもしれないが、音声ガイドの出現で一歩足を進めることさえ戸惑うこともある。解説があれば確かにありがたいが、果たして作品の鑑賞としてどうだろうか。作家のスキャンダルや特異性ばかりを取り上げ、作品の本質を余計な情報で曇らしてしまってはいないか。自分の目で見る行為をおろそかにして、耳から入る解説だけが頭に焼きつく。純粋に本来の作品を鑑賞するところに立ち戻りたい。 また、展覧会など縁がない、絵など分からないと言っている人は、とにかく先入観なく勇気を持って展覧会に出かけ、作品と向き合うことだと思う。歩き、電車に乗り、バスに乗って展覧会場まで行って作品を見る。一度ではなく、何度か行ってみる。自分の目と感性で時間をかけ、作品をしっかりと見ることで、多くの眠っている感性を呼び起こすことになるかもしれない。きっと何かが聴こえ、響いてくるだろう。 これは、展覧会に限らず「映画」や「本」などについても同じだと思う。若いときは、よく映画に行ったけれど、ビデオやDVDで済ませて、もう十年も二十年も映画館には行ってない。また、目がすっかり悪くなったから本なんて何年も読んでない―という人がいたら、ある理由をつけてピリオドをつけないでほしい。 映画館に行って、昔よりずっと座りやすくなった座席で映画を楽しんでみてはどうだろうか。そして、長い文章が読めなければ、俳句でも短歌でも一編の詩でもよいから声を出して読んでみたらどうだろう。コンサート会場に行って、クラシックでもジャズでも歌謡曲でも生の演奏を楽しみ、歌を聴いたらどうだろう。 情報過多で何を選んで、何をしてよいか分からないときはちょっと庭を眺めて、季節を感じるくらいのゆとりを持つとよいと思う。移ろいゆく時間の流れの中で、その一瞬一瞬を生きている実感を持ち続ける状態にしていくには、多くの無駄を経験し、遠回りをすることも決してマイナスではない。 教養とは、ザルに何度も何度も水を流し、いつしかそこにたまるミズゴケのようなものだと聞いたことがある。ミズゴケが付かず、カビが生えて朽ちていくか、美しいミズゴケが付くかは、慌てず淡々と、たとえ水量が少なくなろうとも、流し続けることが大切のようだ。 (上毛新聞 2006年12月21日掲載) |