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ふれあい・いきいきサロン池田代表 宮田 秀穂さん(安中市大竹)

【略歴】安中市職員(在職中、農業実習生としてブラジルへ派遣される)を経て県職員。退職後、県立特別養護老人ホーム高風園長などを歴任。長く日伯親善交流に努めている。

移住地の「日の丸」

◎掲揚は日本人の誇り

 四十八年前のブラジルは、明治四十一年に日本移民がブラジルの土を踏んでから五十年を数え、日本から三笠宮ご夫妻をお迎えして「日本移民五十年祭」が盛大に行われ、四十万日系人は歓喜に沸き立った記念すべき年だった。

 一方、日本は戦後の混乱から抜け切れず、人は余り、失業、食糧難にあえいでいた。

 このため、国は昭和二十八年に再開された海外移住事業を積極的に推進し、三十二、三十三の両年はともに一万五千余人の移住者を南米の国々へ送り出した。

 その年、私は全国から選抜されたブラジル国派遣農業実習生十人の一人として、移住船アルゼンチナ丸で八百六十三人の移住者とともに渡航した。

 最初の目的地であるアマゾン河口ベレン市郊外のトメアス移住地に着いたのは、出国から一カ月後の十一月三日であった。

 まず出会ったのがアマゾンの奇人といわれる老人で、祖国は神の国で絶対に負けないと信ずる「勝ち組」の一人だった。日本人なら誰もが「敗戦」という言葉は忌み嫌うと教えられ、遠く離れて生きる移住者の心情を理解することの大切さを痛感させられた。

 ここでの生活も二週間が過ぎた十一月十五日、「入植二十九周年記念運動会」がトメアス野球場に超満員となる日系人やブラジル人が集まって盛況に行われた。

 進行係の号令で全員が起立すると、ブラジル国歌が流れて国旗が掲揚された。続いて「君が代」が流れると、自然に大合唱となった。これに合わせて「日の丸」が、延々と続くコショウ畑、さらには原生林を背に果てしなく広がる紺ぺきの空にゆっくりと高く揚がっていく姿は、異文化社会で初めて見るもので、大きな感動と感銘は終生忘れ得ぬものとなっている。

 滞在半年が過ぎた翌年五月、アマゾン組の三人は上流部の視察研修旅行に出かけた。

 最大の関心は、日本からの同船者で千六百キロ奥地のマナオス市郊外に創設された移住地に入植された十七家族の動静だった。

 特に、S氏は船中で日本の社会を否定し、全く新しい自由で平等な天地を創造するという大きな夢を語っていた。このため入植者と協調できるかどうか心配していた。

 ところが、真っ先にS氏を訪ねると、屋上に日の丸が翻っている。船中の話から持っていることが想像できなかったので、尋ねると、「おれは日本人だ。日の丸はその証しだ」と言う。そして「アマゾンの奥地で日本人の家族が、同志が支え合い、助け合って仲良く頑張っていることを誇示する象徴だ」、また「海外に出る日本人は日の丸は必ず持っている」と言われ、さすがは日本人だとホッとした思いであった。

 このごろ、国旗や国歌が問題になることがあるが、移住地ではごく自然に君が代が歌われ、国旗が掲揚されている現状、そしてこの地球のどこかで「日本人」であることを誇りに、日の丸をその証しとして生きている人々がいることを、ぜひ知ってほしいと願っている。






(上毛新聞 2006年12月20日掲載)