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◎地域の底力が問われる 多言語・多民族化した社会の課題の一つに「防災」がある。関東大震災では罪のない外国籍住民が迫害された。阪神淡路大震災では日本語を母語としない外国籍住民を支援する、さまざまなボランティア団体が生まれた。新潟県中越地震では、阪神淡路大震災で構築された知恵と技術が生かされ、神戸や横浜の支援団体は多言語による見事な後方支援を展開した。 惨事から教訓を学び、外国籍住民を念頭に入れた災害時の支援態勢が着実に築かれつつある。その取り組みは、本県をはじめ、外国籍住民が集住する各県で広がりをみせている。 こうした動きは高く評価されるが、なお不安は高まる。一連の取り組みの多くが「外国籍住民への支援」にとどまり、「地域防災」の取り組みとして展開していないように思えるからである。災害が起こったときには、外国籍住民が特定の場所に集まるわけではない。県外からの支援を常に期待できるわけでもない。日常生活の、その場、その周りにいる人同士が、どのように声をかけ合い・助け合い・支え合うことができるのか。有事には「地域」の底力が問われる。 昨年、神戸を視察した際に、震災当時、医師として地域を回った方に、次のようなお話を伺うことができた。「生きるか死ぬかのときに問われるのは、言葉が話せるかどうかよりも、自然に手を差し伸べられるかどうか。あそこに住んでいる○○さんは大丈夫だろうか、と思い巡らせられるかどうか。気付かれないまま命を落とした犠牲者は、<地域>の犠牲者。その犠牲者は少なくはない」 本県で、その犠牲者を最小限にとどめることはできるのだろうか。それぞれの「地域」で外国籍住民がどれだけ認知されているのだろうか。外国籍住民もどれだけ「地域」にかかわっているのだろうか。 群馬大学は、毎年開かれる大泉町の防災訓練に学生たちとともに参加させていただいている。昨年度は、企画・運営に外国籍住民も、日本籍住民もかかわった。それ以前の「外国籍住民のための」防災訓練には限界がある、という反省からだ。救急隊員が実演しながら日本語で説明し、それを通訳者が訳すという形式を取っていた蘇生(そせい)法講習も、外国人学校の先生方が先に技術を習得し、実演しながら母語で外国籍住民に説明する形式に変わった。 多くの子供たちの命を預かる先生方は、真剣に実技を学び、熱意をもって説明した。そうした先生方に引き寄せられるように、いつもより多くの外国籍住民が実技体験をしていた。日本籍住民の参加者数はまだ多くはないが、「協働の」地域防災の芽生えを実感した事業だった。 地域には日本語を母語としない住民だけではなく、妊婦、乳幼児、高齢者、病気療養中の人など、身軽に避難することができない住民がいる。その不安や行動様式は多様である。必要とされる支援も多様である。そうした地域住民のさまざまな声に耳を傾け、協働で取り組む地域防災の在り方が求められている。 (上毛新聞 2006年10月5日掲載) |