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◎時代の波頭となる活躍 今回は、彦部家が桐生織物史にいかに携わってきたかを検証してみたいと思います。まず、仁田山紬(にたやまつむぎ)注文書。これは彦部家の家宝であり、桐生織物史をひもとく最初のキーワードです。本古文書は戦国時代の天文十七(一五四八)年、室町幕府第十三代将軍足利義輝の寵姫(ちょうき)小侍従が彦部家三十一代晴直あてに送った織物発注書であり、室町時代から既に桐生地方で綾(あや)、紬といった高級絹織物が商品化され、遠く京都へも知れ渡っていたことを示す貴重な資料として、昭和三十八年に桐生市の重要文化財に指定されています。 次に十九世紀前半、文政・天保年間に桐生織物隆盛の一翼を担った彦部家四十二代知行の足跡を検証してみます。まず、文政三(一八二〇)年、知行の機業に対する熱意と卓越した工場経営が幕府に知れ、幕臣荒堀五兵衛が彦部工場の視察に訪れています。また同九年には、父信有から伝授された染織技術と京都西陣に身を寄せて習得した繻子(しゅす)織り技術とを進化させ、日本最初の「黒繻子染め」技法を発明し、桐生織物史に大きな光彩を放っています。 さらに天保八(一八三七)年、後進の足利織物市場の急発展が桐生市場の衰微の原因と知るや、桐生の機屋や絹買い仲間の足利への出市を差し止める「桐生機屋絹買仲間議定」を発議成立させ、当時の桐生織物の窮地を救い、時代の波頭となる活躍をしています。 一方、近代に入ると彦部家四十六代駒雄は主に帯地・胴裏地等に使用される人造絹糸技術を駆使した「文化帯地」の創織者および桐生織物の国内外への販路開拓先駆者として知られています。特に、大正十二年から県議会議員を三期歴任しつつ、同十五年に桐生織物同業組合長に就任し、昭和四年、米国ウォール街の株価大暴落に端を発する金融恐慌の中、「産業に政党なし・産業に国境なし」を旗印に桐生織物業界を率先垂範で指揮し、不況脱出に大きな貢献をしています。 その方針は、技術的には織物品質改善による商品価値の向上を促し、営業的には国内では大阪、京都、名古屋、東京等の主要集散地で盛大な宣伝会を開催して相当な効果を挙げ、一方の輸出では朝鮮、中国から香港、シンガポール、インドまで販路を拡大し、桐生織物の黄金期を築いています。その間、県立桐生工業高校の設立や桐生織物史の編さん等の文化行政にも大きな功績を残しています。 没後、これらの功績を顕彰して桐生織物会館前に銅像が建立されました。この銅像はその後、太平洋戦争時に供出され、今は記念石碑が当時の面影を伝えています。このように、彦部家の先祖は桐生織物の浮沈とともに歩み、そのたびごとに時代をリードする新しい政策を提唱し、桐生織物発展のけん引役となっています。 現在、桐生織物はかじ取りが難しい局面にありますが、これを先人が何回となく克服してきた壁ととらえ、今後はこれを打破できる産業基盤づくりに一市民として微力ながら携わっていきたいと考えています。 (上毛新聞 2006年9月29日掲載) |