視点 オピニオン21 |
■raijinトップ ■上毛新聞ニュース |
|
|
◎秘められた奥深い教え 「なせばなる なさねばならぬ なにごとも ならぬはひとの なさぬなりけり」 「堪忍の なる堪忍は 誰もする ならぬ堪忍 するが堪忍」 誰もが一度は聞いたことのある歌である。このように五七五七七のリズムに乗せて、戒めや物事の教えを伝える短歌を「道歌」という。たった三十一音の中に何とも味のある、奥深い教えが秘められている。 道歌は古来、武道はもとより、華道、茶道等の諸流に伝わるもの、地域に伝わるもの、指導者の教えや家訓など多岐にわたる。礼法の分野にも、当然ながら数多くの道歌が伝えられている。ここに小笠原総領家に伝わる教え歌の中から、象徴的なものを紹介しよう。 「不躾(ぶしつけ)は 目にたたぬかは しつけとて 目に立つならば それも不躾」 行儀の悪い人は目に付くけれども、いくら立ち居振る舞いが見事にできるからといって、それが人目を意識して行われる行為であったり、目立つ振る舞いになったりしては、かえって不躾な行為と同類になってしまう、という意味である。もう少し突っ込んだ解釈をすれば、パターンにとらわれ過ぎず、臨機応変、自然体でコミュニケーションを図ろうというものであり、そこには、しっかりとした基本の立ち居が身に付いていることを前提としているのである。 伝書にも、こんな一節が記されている。「躾さきにありて心につかば、これ身の据わりなり…」として、まず基本動作をしっかり身に付けた上で「水は方円の器に従う心なり」と、フレキシブルな対応を求めている。ほかにも、「一遍に凝り固まるは礼に非(あら)ず」とか、「時宜よろしきように」「時宜によりまた人によるべし」という表現が随所に見られるのである。 そこには、作法を忠実に守らせようという「べからず集」的発想ではなく、無神経さの生む行為こそが大敵であることを伝えている。 現在の生活環境は、あらゆる場面で物事のシステム化が進んでいる。しかし、いくら素晴らしいシステムやルールを構築しても、うまく機能させられないために起きるトラブルが後を絶たないのは、それを機能させるためのマニュアルを理解し遂行する人間の「気付き」の感度が鈍っているからにほかならない。 臨機応変な対応とは、この感度が高まってこそ成立する能力なのである。気付きの感度をどう高めるか、現代マナー、接遇応対の分野には特に反映させたいところである。 昭和初期、小笠原伯爵家の家従職(庶務官)にあった安井正格氏は、当時の次代を担う若者のために、膨大な礼法故実のうちから時代にあった心得を拾い集め、西洋礼式も含め、覚えやすい道歌として便覧を編さんした。その数三百余首に上る。序文には「我(わが)国伝来の美風も年を逐(お)ふて失墜せんとする」と記され、将来を憂える思いに興味を引く。いつの時代も温故知新。歴史の積み立てを認識して、道理を理解することも必要な作業ではないだろうか。 (上毛新聞 2006年9月22日掲載) |