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◎未来に引き継ぐ財産 時は、万延元(一八六〇)年。四国の八十八カ所を模した霊場が当時の新田、伊勢崎を中心につくられた。創設したのは、新田郡阿久津村(現在の太田市阿久津町)の豪商、白石栄左衛門であった。 彼は全国の神社仏閣に寄進や奉納を行い、その信仰心から、群馬の地に八十八カ所の霊場をつくり上げた。四十六歳のときであり、まさに動乱期、大政奉還の七年前であった。 なぜ、彼がこの時期に新四国霊場をつくったのか分からない。偶然にも時期が重なっただけなのかもしれない。江戸では、桜田門外の変が起こっていた。 明治元年、新政府は神道を国教化する政策から、神仏分離令を発布した。 その結果、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)の運動が各地で起こり、仏教界は猛烈な打撃を受けた。栄左衛門がつくり上げた新四国霊場の中にも、廃寺に追い込まれた寺院がいくつかあった。 同十六年、栄左衛門が七十一歳で亡くなると、彼の遺志を継いで、娘婿の庫之輔(くらのすけ)が復興に着手した。同二十七年であった。 同年には日清戦争が勃発(ぼっぱつ)しており、十年の間隔をおいて、日露戦争、第一次大戦が起こっている。庶民には、霊場のことまで考える余裕はなくなっていた。 このような状態の中で、さらに、昭和七年になって、現在の太田市沖野町にある延命寺(六十番)の住職であった斎藤観良が霊場を再興している。それは、弘法大師千百年御遠忌を機に思い立ったものであった。 彼は廃仏棄釈で破壊された寺院や、他宗派のそれを整理し、創設時とは若干異なる霊場や順番で、新四国を再興させた。新たに桐生地区を編入させ、そこに八寺の霊場を定めた。各寺院には第何番であることを刻んだ印を授け、霊場の証しとした。 それから七年後の十四年、社会が一変した。第二次大戦が勃発したのである。人々の生活は一層苦しく、遍路どころではなくなった。 その後、新四国霊場は、わずかな研究者を除いて、ほとんど顧みられることはなかった。 しかし、平成の現代になって、新四国の各霊場や納経所が現存し、昭和七年に授けられた印も存在しているのが確認された。 江戸末期、白石栄左衛門によってつくられ、いくつもの大戦をくぐり抜けてきた霊場が、現在まで息づいていたのである。各寺院は遍路を迎える準備を万端に整え、霊場たる自覚を新たにしている。 今では、地元の再発見を兼ねて、多くの人々がこの霊場を巡り始めている。 この新四国霊場は、群馬が誇るべき文化遺産であり、これからも未来に引き継ぐ財産として、大切に維持されていかなければならない。 (上毛新聞 2006年9月8日掲載) |