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妙義山麓美術館長 稲川 庫太郎さん(高崎市石原町)

【略歴】21歳で日展初入選。モンテカルロ現代国際グランプリ展入選など国内外で数々の賞を受賞。日本はがき芸術作家文化会長、碓氷峠アートビエンナーレ実行委員長。

青木繁の生涯

◎絶えず夢を追い続ける

 子供のころ、夏休みになると親の実家へ遊びにいくのが楽しみだった。戦後の食糧難にもかかわらず、祖母の手料理でご飯が腹いっぱい食べられたからだ。

 あるお盆のこと。祖母は墓参りの帰り道、伯父や父に「ご先祖さまに感謝している。ご先祖さまが家の周りに四季を通じて食材になる草木を植えてくれなさったから、今、お前たちやお客さまが来なさっても、食事だけは何とかなる。ありがたいことだ」と語った。田舎暮らしの祖母が、子や孫に伝承したかった先祖の知恵であろう。

 ところで、美術館にはそれぞれ独自の物語やドラマがある。当館からは、百年前に川合玉堂や青木繁などが描いた風景が今もほぼ当時のまま展望できる。数年前に企画した「明治時代のロマンの主人公、青木繁・福田たね展」は、キー局のテレビでも紹介され、全国から大勢の人々が訪れた。

 青木の生涯は薄幸な悲劇の歴史である。一八八二年、青木は福岡県久留米市に生まれた。一九〇〇年に画塾、不同舎を経て東京美術学校に入学。翌年、丸野豊、坂本繁二郎とともに妙義山の中之岳神社に約一カ月滞在し、多くのスケッチを描いた。その後、信州に足を延ばして島崎藤村に会っている。

 〇三年、「黄泉比良坂(よもつひらさか)」などの作品で白馬会展・白馬賞を受賞し、鬼才と評された。〇四年、福田たねとの恋も深まり、坂本繁二郎、森田恒友と四人で房州布良に旅行。「海の幸」を描き、二十二歳の若さで一躍有名になる。

 その一方で、姉弟の上京により生活は困窮した。翌年、たねと房州から相州へと旅行。旅先の茨城にて一子、幸彦(福田蘭童)を出産した。しばらく栃木のたねの実家の養護を受ける。

 〇五―〇六年には「大穴牟知命(おおなむちのみこと)」「女の顔」などを制作。〇七年、「わだつみのいろこの宮」を描いて東京勧業博覧会に出品したが、期待に反して三等賞の末席となり、ショックを受ける。八月、久留米の父が死去し帰省。この帰省がたねとの別れとなった。

 十月、九州より第一回文展に「女の顔」を出品するが落選。父の負債と栃木に残した家族の生活に悩み、「父となり三年われからさすらひぬ家まだ成さぬ秋二十八」などを残している。財政難から自暴自棄となり、〇九年に「秋の声」を第三回文展に出品するが、またも落選。もがき続ける青木には一条の光も当たらなかった。

 流浪の末、二十八歳と八カ月の若さで病死した。明治の画壇に彗星(すいせい)のごとく登場し、愛と芸術のはざまで懊悩(おうのう)した短い生涯だった。

 青木の「俺(おれ)の魂は、俺の絵の中で千万年も生きてみせる」という言葉の通り、時を経て「わだつみのいろこの宮」「海の幸」などの作品は今、国の重要文化財となっている。絶えず夢を追い続けた画家に、百年近くたった現在も、多くの美術愛好家が共感と感動を寄せる。

 人は誰もが「生の証し」を残す。田舎の祖母も父たちも山あいに咲く一輪のユリのように、多くの人に知られることなく生涯を終えた。お盆の送り火のころになると、なぜか脳裏に自己の「生の証し」に対する思いが、埋(うず)み火のように浮かんでくる。






(上毛新聞 2006年8月30日掲載)