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◎宮廷文化にかかわる 平安王朝は四百年にわたる日本独特の宮廷文化が開花円熟し、また武士政権誕生への鼓動が芽生えた時期でもありました。すなわち、七九四年桓武天皇の平安京遷都を契機に、前半は天皇中心の中央集権国家を確立していく創成期、中盤は荘園制社会を背景とした国風文化の円熟期、そして後半は院政を警護する形で芽生えた武士集団源氏・平家による源平盛衰期に当たります。 こうした中、彦部家の祖先がいかに時代の荒波を乗り越えてきたかを考察してみたいと思います。彦部家の祖先は九世紀中ごろ、六代峯緒(みねお)の時代に「高階真人(たかしなまひと)」姓を賜与され、皇族から公家へと賜姓降下しております。七代令範(よりのり)、八代茂範(しげのり)親子は鴻臚館(こうろかん)(現在の迎賓館)で渤海(ぼっかい)国使の供応役を務め、その恩賞として当時の清和天皇から御衣を賜っております。 当時、渤海国は朝鮮半島の北、中国東北部に位置し、八―十世紀に活躍した北部アジアの大国でした。また、八九四年に天満宮の祖・右大臣菅原道真により遣唐使廃止が建議決定された後も、九三〇年まで十三回も使者を派遣してきた唯一の貿易・文化の相手国でした。 「白梅や墨芳ばしき鴻臚館」。これは、与謝蕪村が千年の昔の京の都に思いをはせた句です。鴻臚館に滞在する文人ぞろいの渤海国使と、接待する日本の文人たちが互いに負けじと漢詩を作って興じているありさまを、白梅と墨という色の対比、梅と墨の香りの対比のうちに彷彿(ほうふつ)とさせる蕪村ならではの歴史回想句です。さぞかし彦部家の祖先も文人官僚の一人として、忙しく立ち振る舞っていたことでしょう。 渤海国衰退後の日本は「かな文字」の発明もあり、一挙に独自の国風文化が花開くことになります。この時期に在原業平作といわれる歌物語の『伊勢物語』、清少納言の宮廷生活を見事に描写した随筆『枕草子』、紫式部の男女の恋愛をリアルに展開した長編小説『源氏物語』等が次々と生まれております。彦部家九代師尚(もろなお)は在原業平の子(歴史書『尊卑分脈』による)といわれ、十代良臣(よしおみ)の孫娘貴子は摂関家として隆盛した藤原道隆に嫁ぎ、後の一条天皇の皇后、定子(ていし)を設けています。そして、定子に仕えた後宮が清少納言です。 一方、十二代業遠(なりとう)の長男成章は紫式部の一粒種賢子を正妻として迎えております。そして、その数代後の高階栄子(えいし)が後白河天皇の寵姫(ちょうき)・丹後局として院政後半の政治を内から支えております。このように、平安時代の宮廷文化に当時の彦部家の祖先が歴史を支える外戚(がいせき)貴族として深くかかわっていたことが、最近の調査で判明しております。特に、紫式部と清少納言は平安王朝を代表する二大女流作家であり、かつ互いに強く意識していたことが歴史書で傍証されており、この両者に当家がいかにかかわっていたのか謎解きは今スタートしたところです。 今後も温故知新、未検証の古文書を読み解き、歴史ロマン・ルーツ探りの旅で新しい文化発見に努めたいと考えております。 (上毛新聞 2006年8月27日掲載) |