視点 オピニオン21 |
■raijinトップ ■上毛新聞ニュース |
|
|
◎世界に二つの縁切り寺 本県は「かかあ天下に空っ風」で知られるが、群馬が世界に誇れるものは「かかあ天下と縁切り寺」と冗談っぽくいうことがある。実は至極まじめなのである。かつて全国紙のコラム欄の冒頭で「江戸時代、幕府黙許の縁切り寺に、有名な鎌倉の東慶寺ともう一か所、上州(群馬県尾島町)の満徳寺があった。後に廃寺となり今は本堂などが復元されている」と紹介された。 満徳寺資料館が建設された後、本堂などが復元された平成六年の翌年のコラムだが、東慶寺には「有名な」が付き、満徳寺は「もう一か所」で、資料館長としてはいささか不満であった。とはいえ、満徳寺離縁状とともに離縁状に見られる「我等(われら)勝手につき」についての私見を紹介していただいたもので、なにより資料館の宣伝になった。わが国には、縁切り寺は二つしかなかったのである。 さて、当時の世界を見渡したとき、キリスト教(カトリック)では、「神の合わせ給たまいしもの、これを離すべからず」で戒律上、離婚できなかった。またイスラム教は四人まで妻帯できたので、離婚問題が起こらなかった。さらに、仏教では離婚を認めるが、縁切り寺の制度を持った国があることを聞かない。だから、「世界に二つの縁切り寺」ということになる。 「世界に二つの縁切り寺」だったから、フランスの作家スタンダールは縁切り寺を知らなかったのは当然で、著書『恋愛論』の中で、「不幸な女のための楽園」、つまり縁切り寺を夢見ている。離婚を熱望する女は、その楽園(実は女性修道院)で完全に世間から隔絶され、二年たてば離婚が認められ、再婚することができた。ただし、内部の規律は厳しく、また入るためには持参金が二万フラン以上あり、結婚した者に限られた。 スタンダールがこれを夢想した(著した)のは、一八二二(文政五)年のことであったが、わが国には実際に縁切り寺があり、東慶寺には江戸新両替町(現・東京都中央区銀座)の九右衛門女房「きそ」、満徳寺には安房国長狭郡天面村(現・千葉県鴨川市)の「みゑ」が在寺していた。 ところで、満徳寺資料館が開館した平成四年十月、東慶寺前住職井上禅定老僧と小出由友尾島町長(当時)の立ち会いのもと、東慶寺の井上正道住職と資料館長の私との間で東慶寺宝蔵と満徳寺資料館との姉妹館提携をした。 その協定書には縁切り寺の制度が諸外国には見られず、世界に二つしか存在しなかったことに触れ、「縁切寺の意義を広く社会的に理解させることに努めるとともに、相互に交流し、友好を深め、女性権利の擁護、男女の本質的平等に寄与することを念願し、ひいては世界平和に貢献する」とある。 かつて女性救済の聖所として、上州に満徳寺が存在したことは、太田市民のみならず(合併して尾島町立から太田市立になった)、県民の誇りでもある。開館十五年目を迎え、あらためて、その啓発・普及に努力し、世界に向けて情報を発信しなければならないと思う。 (上毛新聞 2006年8月19日掲載) |