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◎図書館から見直しては 手話は言語である。当たり前と思うかもしれないが、これがよく誤解されている。聴覚障害者のコミュニケーション手段という考えならまだしも、福祉の道具といった雰囲気さえ感じることもある。図書館では手話関係の本は、たいてい教育や福祉コーナーに分類されている。しかし、手話は本当に日本語や英語と同じ「言語」なのだろうか。それとも福祉の道具、または単なるジェスチャーの集合体なのだろうか。 そもそも人間の言語とは何だろうか。ある人は、言語の本質は見る、聞く、話す、書くという行為にあると言うかもしれない。しかし、例えば目も、耳も、口も不自由だったヘレン・ケラーはどうだろう。彼女は大学にまで進学しているので、言語を使っていたと考えられる。従って、見る、聞くなどの行為は、言語の本質を表してはいない。 またある人は、コミュニケーションが言語の本質であるというかもしれない。例えば、太郎君が独り言をしゃべっていたとしよう。彼は誰かに何かを伝える意思はなく、独り言に対する周囲の反応を期待しているわけでもない。伝える相手がいて初めてコミュニケーションが成立するならば、この場合、彼は言語を使っていないことになる。果たしてそうだろうか。 言語学では、言語の本質は「恣し意い性」と「再帰性」と考えられている。恣意性とは、物事の性質や外見からかけ離れて、名前が決められることを指す。例えば、「リンゴ」はなぜ「リンゴ」と言うのだろう。先人が、赤くて丸くてやや堅いこの果物を「リンゴ」と言おうと、ルールとして決めたにすぎない。語源には何らかの意味があるかもしれないが、「リンゴ」と発音することにそれほどの合理性はない。 また再帰性とは、どの言語であれ、有限個の言葉数で無限に文を作り出せることを意味する。日本語の単語は無限ではない。だが、無限に長く文を作ることは可能である。例えば「わたしはご飯を食べた」という文では、「わたしは昨日、ご飯をたべた」「わたしは昨日、友達とご飯を食べた」「わたしは昨日、友達とレストランでご飯を食べた」など、永遠に長くできる。これも一定のルールに基づいて行われる。 つまり、言語はある一定のルールの集まりといえる。実は手話にも同じような恣意性や再帰性といったルールが存在する(ジェスチャーには存在しない)。恣意性が高い例として、日本手話の「水」やアメリカ手話の「right」などがある。ちなみに、手話は世界共通ではない。アメリカ、イギリス、中国など多くの手話がある。もちろん、各国の手話にも再帰性が存在し、無限に長い文を作ることができる。 このように考えると手話は立派な言語であり、単なる福祉の一分野ではない。それを支持する研究も近年、多く出ている。 そこで、図書館では手話関係の本を言語コーナーにも置いてみてはどうだろうか。もちろん教育や福祉とも関係はあるが、「手話は言語」という視点をそろそろ提供してもよい時期と思われる。 (上毛新聞 2006年8月2日掲載) |