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◎長屋王の活躍をしのぶ 五月末、大阪府堺市で恒例の「全国重文民家(所有者)の集い」総会と大阪、奈良の重文住宅視察が行われました。総会が開催された堺市は仁徳天皇御陵をはじめ、有名な史跡が散在する歴史的資産が豊富な土地です。大阪では武家社会を支えた豪商館・豪農館を訪ねました。また、奈良は、古代日本創設の地であり民家史上でも貴重な邸宅が数多く残っていました。 特に印象深かった訪問地は、南北朝時代に後醍醐・後村上・後亀山の三代の天皇の行在所(あんざいしょ)であった堀家住宅でした。同住宅は奈良盆地から南へ幾山も越えた吉野の里にあり、表門には扁額(へんがく)「皇居」が掲げられていました。ここを通り抜けると、中世にさかのぼる指定民家中最古の主屋が出現します。この茅(かや)ぶき入り母屋造りの農家には外観、内部構造とも古き昔をしのばせる奥ゆかしい雰囲気が、そこかしこで感じられました。 堀家住宅の歴史・秘宝の解説と、その保存に関する並々ならぬ努力と工夫の説明を拝聴するにつけ、どの重文民家所有者も重文指定された瞬間から国に代わり邸宅管理が運命付けられている番人となることをあらためて実感しました。 さて、今回の旅のもう一つ大きな楽しみは当家の先祖第二代・長屋王(ながやおう)の遺跡を探訪することでした。奈良時代初期、西暦七二三年、律令制維持の土地対策として新田開墾推奨政策「三世一身の法」が太政官より発令されました。長屋王は右大臣(その後左大臣に昇格)としてこれを取り仕切り、また当家家系の中で最初の悲劇に巻き込まれた先祖でもありました。 第四十代、天武天皇の孫として生まれた長屋王は時の権力と勇敢に戦い、いわゆる「長屋王の変」で敗北、自害しております。しかし、死後に生前の足跡が見直されて名誉回復し、以降、菅原道真、崇徳天皇とともに古代史上三大悲劇王の一人と称され、今日まであがめられてきております。今回の旅で、この長屋王の邸宅跡・墓所が現在どのような形で保存されているかを知ることに大変興味がありました。 邸宅跡は平城京の東南角にあり、現在、大手デパートが建設されておりました。その一角には、大極殿の支柱跡を表す大理石が等間隔で埋め込まれ、その対角線上に木簡四万点出土記念の石碑があり、さらに残る一角に邸宅全体の見取り図があるといった圧倒されるようなスケールでした。また、王を弔う古墳跡は都の西南に位置する生駒山のすそ野、奈良県平へ群町(ぐりちょう)に正室の吉備内親王(きびないしんのう)古墳とともにひっそりと残されておりました。その墓前で長屋王の往時の活躍をしのび、悲劇を弔い、感慨をもって拝礼することができました。 それにしても夫婦別々の古墳として埋葬されている現実を見るにつけ、長屋王夫妻の権力の大きさ、人望のあつさにあらためて敬服させられました。 今回の旅では、まずは遺跡を確認し、歴史検証することで、机上では得られない新たな事実に出合い、回想に浸り、そしてルーツ探索の基点として期待通りの申し分のない結果を得ることができました。 (上毛新聞 2006年7月12日掲載) |