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◎縛られない生き方貫く 皆さんは、ロシアの文学者チェーホフを日本に最初に翻訳紹介した人物が、高崎市出身の女性だったことをご存じだったでしょうか。 明治三十六年『新小説』八月号に掲載された『月と人』が日本におけるチェーホフ作品の最初の翻訳であり、訳者は瀬沼夏葉(かよう)(本名・瀬沼郁子)でした。以後、大正四年、四十歳の若さで亡くなるまで、雑誌や新聞にチェーホフの小説や戯曲を紹介し続けました。女性たちの手による日本初の文芸誌『青鞜(せいとう)』にも長編戯曲『叔父ワーニャ』『桜の園』『イワノフ』が掲載されています。ちなみに、夏葉訳『叔父ワーニャ』は大正八年に上演され、これを見た芥川竜之介がその感動を「日録」に記しています。 ロシア語から直接日本語に翻訳してロシア文学を日本に紹介したのは二葉亭四迷でしたが、この当時、二葉亭四迷を除くとロシア文学の紹介は、すべて英語訳かドイツ語訳からの重訳でした。チェーホフの作品をロシア語から直接翻訳し、しかも継続的に発表したのは瀬沼夏葉が初めてでした。 瀬沼郁子は旧姓を山田といい、明治八年十二月十一日、山田勘次郎とフミの長女として高崎市山田町に生まれました。父は蚕種業を営み、母は高崎藩士の娘であったといわれています。フミは郁子が八歳の時、亡くなりました。十九年十月、満十歳で郁子は上京し、駿河台の東京女子神学校に入学します。 この女子神学校は、ロシア正教会宣教師ニコライが創立した日本ハリストス正教会のミッション・スクールでした。山田郁子とニコライとの出会いは十四年五月、ニコライが高崎に巡回した時で、ニコライから大きくなったら駿河台の女学校に出て学問をするように勧められたようです。 女子神学校には六年間在籍し、二十五年七月に卒業しました。そして同校の助教員に採用されました。三十一年一月、郁子は正教神学校校長、瀬沼恪三郎と結婚します。郁子二十二歳、恪三郎三十歳でした。恪三郎はロシアのキエフ神学大学に留学経験があり、郁子の短期間におけるロシア語の習得は瀬沼恪三郎の力によるところが大きかったようです。 結婚した郁子は、長女と長男を出産したのち、三十四年、当時文壇の寵ちょうじ児で読売新聞に『金色夜叉(やしゃ)』を連載中の尾崎紅葉の弟子になりました。「夏葉」という号はこのとき紅葉から与えられたものです。尾崎紅葉は三十六年に亡くなってしまいますが、この間、紅葉には翻訳の校閲をしてもらっていたようです。 平凡な家庭婦人になりきれない郁子は、こののち波乱に満ちた人生を送ることになります。重い因習と「家」に幾重にも縛られていた時代ですから、世間の人々のまゆをひそめさせることもあったようです。しかし、女たちの新しい時代が『青鞜』という一冊の薄い雑誌から始まろうとしていた時代でもありました。新しい時代の波は「家」の中の妻や嫁であっても、個人としての女性など存在できなかったこの国にも確実に打ち寄せていたのです。瀬沼郁子は世間に縛られることなく、一人の人間として生きようと行動した「新しい女」であったことは確かなようです。 (上毛新聞 2006年7月3日掲載) |