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◎美しさ素直に感じ取る 今年は、萩原朔太郎の生誕百二十年にあたり、あらためて郷土の詩人としての認識を深めたいと思っているが、朔太郎と同様に生誕百二十年を迎える、私にとって精神的な支えである画家がいる。藤田嗣治である。すでに東京国立近代美術館で展覧会が開催され、期間中は大勢の人が詰めかけたと新聞やテレビで報道されていたが、私はこの画家を父から教えられた。 異性に興味を持ち始めた十七歳の私は、家の本棚にある美術全集を広げて、裸体画を見ることが多くなった。そうした私を見ていた父は、ある日、「美しい女性の裸体はこれだよ」と、昭和四年、東京朝日新聞から発行された『藤田嗣治画集』を私に示した。画集は七十余年を経たので、表紙を含め全体がやけて茶色くなっているが、異性へ目覚めた青春の原点に立ち戻りたいとき、今でも手にする。 画集に描かれている女性は、ほとんどが筋肉の影をもつ力強い裸体である。「女二人男一人」の作品で、左手を上げた裸婦の下腹部には、落書きを消しゴムでこすった跡がある。異性に目覚めたころを鮮明に思い出させる。 また、画集には「在仏十七年」という自伝風と書き添えた藤田嗣治の文章があるが、その中の「自分の生活を恐るゝやうでは何事もなし得ないのだ」という一文と、「自分には自分の死ぬ日までの奮闘があるばかりである。最後まで努力しなければならない」という文章に、鉛筆で傍線が引いてある。私が十七歳だったその年、私淑していた堀辰雄と釈超空が亡くなり、精神的に不安定なときでもあった。この藤田の言葉との出合いは、青春期の不安に満ちた心の揺れを超えるきっかけとなった。 朔太郎の『純情小曲集』に、「ふらんすへ行きたしと思へども」の詩句で知られている「旅上」という作品がある。単にフランスにあこがれた詩ではない。明治四十四年十月の妹ユキへの手紙に「私は日本を去らうと思ったのです」とある。旧弊な環境から一人の少女への思いが実らず、その環境から逃れ、自由に生きたいという気持ちがうかがわれる。 藤田も、画家たちが戦争協力に対する責任を藤田にかぶせるような周囲の騒ぎに、芸術を理解しない身辺から逃れたいと、昭和三十年国籍を捨て、フランス国籍を取得し、フランスに永住した。この詩人と画家の姿に、求めても求め得ない、言い知れぬ寂しい人生を感じる。 私は十七歳のころのことを思い出すたびに、父と「乳白色の裸婦」が重なる。生誕百二十年藤田嗣治展で、裸婦の美しさを素直に感じ取る感性が、今も私の体内に残っていることを知った。それは、父が私にほどこしてくれた、たぐいまれな異性への目覚めの教育のおかげである。限りなくぜいたくで、そして汚れない精神を養ってくれた。父に会いたくなると、シャンパーニュの都市ランスのノートル=ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に行きたくなる。昭和四十一年に藤田が壁画とステンドグラスをデザインした礼拝堂だが、その前庭で父が待っているような気がするからだ。 (上毛新聞 2006年7月1日掲載) |