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◎別宅隠居という知恵 江戸の親子の話の三回目である。これまで隠居にあたって、その老後生活を支えるために隠居面を留保し、また隠居(扶養)料の取り決めなどについて述べたが、これと同様に、重要な問題がその住まい方であった。隠居には、跡継ぎと同じ家に同居する隠居(同居隠居)と別居する隠居(別居隠居)とがあり、後者には同じ屋敷内に別宅を建てて住む場合(別宅隠居)と屋敷の外に家を建てて住む場合(別家隠居)とがある。 老年になり、倅(せがれ)に別居を願うが入れられず、支配役所に駆け込み、訴えをした父親がいる。一八三二年、武蔵国入間郡石井村(埼玉県坂戸市)での出来事で、倅から父へ相当な手当と「百姓相応」の別宅を建てることが約束された。 一八一九年、越後国魚沼郡谷内村(新潟県中魚沼郡津南町)の例では、相当な扶養内容のほか、隠居屋として三間・二間の六坪、十二畳分の別家のほか、一坪半の薪(まき)小屋も用意するとある。特筆されるのは、独居は不自由だからと、妾(めかけ)もしくは飯炊き女を雇うことを勧めている。 ところで、隠居証文に隠居分や扶養の契約だけを規定した証文はまれで、多くは隠居屋のこと、その住まい方が規定されており、これが重要な要素であった。しかし、谷内村の場合は例外で、具体的にどのような住まいが用意されたかは判然としない。 しかし、日光社参、すなわち徳川家康の忌日である四月十七日に将軍自ら日光廟(びょう)に参詣する際、随行する諸大名の宿泊で周辺の百姓家を供するために作製された「住居絵図帳」が、宇都宮周辺の日光道中沿いの村に残存している。そこに各戸の平面図に間取りを描いている。 一七二六年、下野国河内郡鶴田村(栃木県宇都宮市)の住居絵図帳には、「隠居家」と明記されたものが十一軒ある。隠居家は平均すると七・七坪、家族が暮らす居住空間の中で隠居家の占める割合は平均で29・2%である。同居隠居は一軒だけで、ほかは別宅隠居である。隠居生活には十分の空間であったといえよう。 別居を求めて支配役所に駆け込み訴えをした隠居の存在は、隠居したら後継者家族と別居することを可とする意識が、社会通念として定着していたのではあるまいか。もちろん、別に家を建てるということは相当な家産があってのこととはいえ、下野国の住居絵図帳に見られる隠居のほとんどは別宅隠居であったことを考え合わせると、嫁しゅうとめ問題をはじめとする世代間紛争は、お互いに常時見えない(監視し合わない)距離で生活することで回避したのであろう。 別宅隠居という住まい方と、親子間でも契約を交わして扶養義務を明示的に規定し、履行を確保しようとの観念は、ともに学びたい江戸の知恵である。 その知恵に学び、子に依存しないという覚悟とともに、二世帯住宅や同じ敷地内に住むときには、親子間でしっかり話し合い、住まい方や固定資産税、水道光熱費、電話・新聞代などをどちらがどう負担するかなどを取り決め、できれば契約(書面)にしてみてはいかがだろうか。 (今日では差別的とされる用語が含まれているが、当時の資料に基づいて記述した) (上毛新聞 2006年6月21日掲載) |